学校教育を考える①『校則』

今、良くも悪くも注目されている「校則」。

その中でも特に「制服(服装)」と「髪型」に注目が集まっています。

 

 

私が教員生活の中でよく耳にしてきた言葉。

一例を挙げれば、

「服装の乱れは心の乱れ」

「学校に来るのに個性やオシャレは必要ない」

「365日今すぐにでも面接を受けられる髪型にしておかなければならない」

「きちんと制服を着て〇〇高校生としての自覚を持ち、心をひとつに!」

など。

 

 

私は教員ですが、

もちろんこれには全く納得していません。

 

 

なぜなら、

 

 

『服装の乱れは心の乱れ』

→ そもそも順序が逆。服装が乱れたから心が乱れたのではなく、心が乱れた(心に問題が起きた)からそれが服装に現れただけ。

「服装の乱れ」がそんなに気になるのであれば、シャツを入れろだのボタンを留めろだのといった見た目だけの指導する前に、その子が制服をきちんと着ていないのはなぜだろうか?という事に目を向け、それを解決するためにどういった支援が必要なのか?という事を考えるのが先だと思う。

また、「制服や髪形などのルールを緩めると学校が荒れる」といった事もよく聞く話だが、これもただの迷信だと思っている。

なぜなら、この理論で行くと「髪型や服装は自由な学校は全て荒れている」という事になる。

長野県の公立高校の半分は私服らしいので、この理論から言えば長野県の半分の公立高校は荒れていなければおかしいが、そのようなことは全く聞いたことは無い。

 

 

『学校に来るのに個性やオシャレは必要ない』

→ 確かに勉強するその瞬間だけを見れば、オシャレは必要無いかもしれない。でも学校は勉強をするためだけに来るところではない。

勉強・人間関係・自分自身の在り方や生き方を考える事。それらをひっくるめて「学ぶ場所」。それが学校であるはず。

思春期を経て社会人へ成長していくこの時期。見た目や異性を気にし始める、他人を意識するというのは人という生物として当たり前の事。

自分自身を知り、自分自身の魅力や能力を、試行錯誤しながら開花させていく。

心と体は一体で分割できない存在である以上(アドラー心理学より)、その日の髪形や服装によって気分を整えて行く事、そしてその手段を知り実践することは、学校でのより良い学びに繋がっていくものだと思う。

 

 

『365日今すぐにでも面接を受けられる髪型にしておかなければならない』

→ 単純に「なんで??」としか思わない。面接で好印象になるように髪型を整えることなんて、前日に床屋に行って「明日面接なんで清潔感のある髪型にしてください」って言えば1時間でできる。

「いつもその髪型にしておかなければ面接に行けない」なんて、何の都市伝説だろうか?

ちなみにほとんどの学校は「整髪料や化粧は禁止」にしてるけど、社会人としてのマナーは逆だよね?

寝癖を直して整髪料で髪型を整える。女性はすっぴんの方が指摘されることが多いので化粧をする(職業にもよるけど)。社会人なら当たり前のようにやっている事。

これらを学校で禁止しておいて、いざ卒業したら「自分で考えてやれ」という理不尽。

何のための教育なのか?学校なのか?本当に意味が分からない。

 

 

『きちんと制服を着て〇〇高校生としての自覚を持ち、心をひとつに!』

→ 軍隊か?そもそも心は一つにはならないし、教育で大切にしなければならない多様性や個性はどこ行った??

大切なのは見てくれの統一感ではなく、「この学校に居場所がある」「この学校の生徒で良かった」と思える「所属感」なのではないだろうか?

それは日ごろからの学校生活の日常において積み重ね養われて行くものであり、生徒同士・教師同士・教師と生徒の信頼関係の構築でしか手にすることはできないと思うし、そこに服装や髪形は何の関係も無い。ましてや「同じ制服を着る」ことで獲得できるような安易なものでも無いと思う。

 

 

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まぁ、色々ともの思う事はあるのですが、

こういう事を考えるとき、いつも思い出す言葉があります。

 

 

APU(立命館アジア太平洋大学)の学長である出口治明さんの言葉。

『今の学校に一番足りないのはサイエンス(科学)とエビデンス(根拠)である。』

 

東京大学名誉教授である汐見稔幸さんの言葉。

『学校はもっと「そもそも論」を議論すべき』

 

 

これらの言葉が全てではないだろうか?

 

「そもそも学校は何のためにあるのか?」

「その目的を達成するのに最適な手段とは何か?」

「そのルールにしている論理的・科学的な根拠は何なのか?」

「そもそもこのルールはなぜあるのか?」

「本当にこのルールが適切なのか?」

 

学校が本当により良い学びの場であるために、一度ゼロベースで考え直してみる時期に来ているのではないかと感じます。