『学校依存社会』からの脱却

先日受けた教員の研修で「現代は学校依存社会」という言葉を聞いた。

聞いた瞬間、ストンと腑に落ちた。
 
法律で見ても「子の教育についての第一義的責任」を負うのは保護者であり、学校(教員)ではありません。
 
保護者以外の地域の大人達も「今の社会を作っているのは他ならぬ自分達自身であり、子ども達はそれを映す鏡である」という自らの責任を見つめ直し、子ども達に「生きる」ことの意味を教える義務と責任があります。
 

 

もう何度も言っているが、教員は働かせ放題の奴隷ではありません。
子どもを盾に取れば何でも言う事を聞いてくれる何でも屋さんでもない。
 
しかるべき報酬を税金から頂いている以上、教員として果たすべき責任や仕事に対し、公務員としてその職責は果たさなければなりません。
 
しかし今の学校(教員)は、本来その職責で背負う必要の無い仕事や責任までも背負っている。プライベートの時間(勤務時間以外の時間)までも犠牲にして。。。

それも教員が絶対に逆らえない「子どもたちのために」という金看板を盾にして。
 

 

 
そもそも子ども達のために働きたくない教員なんて一人もいないと思うし、そう願っています。
私たち教員は子どもたちの為に日々懸命に働いています。
でも、私たちも一人の人間であり、一人の親でもあります。

 
 
学校や教員に何でもかんでも丸投げするのではなく、同じ地域に生きる同じ大人として、互いの役割と責任を理解し分担し、協力して子ども達を育てて行く事は、そんなに無理難題な難しい事でしょうか?
 
より良い教育はより良い社会を作ります。

逆に、教育をおろそかにしている国は間違いなく衰退します。

 

子ども達のために、そして自分たちの為に、より良い社会を作りませんか?

 

 

学校教育を考える⑤『教師に必要な資質とは?』

今までは、生徒指導(髪型や服装を事細かく守らせること)がきちんとできる人や、部活動などで生徒に言う事を聞かせる事ができる人(いわゆる「生徒をシメることが出来る人」)が「良い教師」とされてきました。

 

また、そしてそれを達成するための手段として、「叱る(怒る)」事や学校の決めたルールを「教師の権力の下で強制的に守らせる」といった「力」に頼ったものが主流でした。

 

 

以前は、そのようなやり方をするしかなかった時代もあったのかもしれません。

しかし時代は流れ、現在の社会では人権意識も高くなり、体罰やハラスメントなどはもってのほかであり、「子どもの権利条約」にもあるように「子ども達も一人の人間として自分の意見を表明する権利がある」といったことも叫ばれるようになりました。

 

教員の中には「時代が変わった、昔は指導もやりやすかった」「厳しく指導出来なくなった(体罰が出来なくなった)から生徒に舐められる。体罰や理不尽を我慢させることも教育」などの声もまだまだあるようです。

 

しかし、このような指導のやり方を私自身は決して受け入れることはできません。

理由は、「明らかに生徒自身の人格(人権)を無視している」こと、そして日本国憲法教育基本法などに書かれている「教育の目的」に反しているからです。

これは文科省が出している答申などを見ても明らかです。

 

 

一人一人が自由で幸せな人生を、社会と調和しながら歩んでいく。

本当の意味での「民主主義社会」を実現するためには、子どもの頃から「民主主義社会」とはどういった社会なのかに触れ、実践しながら経験を積んで行く必要があります。

 

その環境を学校で実現するためには、「学校のシステム」「教員の意識やスキル」をアップデートし、新しい仕組みや価値観を身につけて行く必要があります。

 

 

そこで今回は、そんな「これからの教師に必要な資質(スキル)」をいくつか挙げてみたいと思います。

(※あくまで個人的な意見です。)

 

 

 

 

◆『管理者』から、『支援者』へ

 

従来までの学校教育は一斉授業が中心で、学校の校則も教員(大人)が決めたルールを一方的に生徒に守らせる形が中心でした。

学校に根強く残る「大人」が「子どもを管理する」というカタチ。

 

しかしそれでは「自分の社会は自分たちでより良くしていかなければならない」「自分たちがきちんと考え行動すれば、社会をより良く変えられる」という「当事者意識」や「主体性」は育ちません。

 

この意識は「より良い民主主義社会」を実現するためにはとても大切なものですが、残念ながら私たち大人もそのような意識が持てていない(きちんと学べていない)人が大勢いると感じます。

結果、それが職場での「ハラスメント」や「ブラック労働」、自殺者や病気休職者の増加にもつながっているのではないでしょうか?

 

子ども達には、「社会に出れば理不尽な事が多くあるから」という理由でガマンを強いる事を教える(強要する)のではなく、「理不尽な事があれば、それを変えて行けるし変えて行かないといけない。そしてその権利がある」という事を教えることが大切だと感じます。

 

それを子ども達が学び実践する場が「学校」です。

従来のように子ども達を「管理・支配」するのではなく、生徒が自らが学び成長しようとする力をいかに「支援・サポート」して行くのか?

生徒が失敗した際に「叱る」のではなく、その失敗をどうリカバリーして経験として次に活かすのか?

足りない部分をどう上手くフォローアップしていくのか?

 

その方法を共に考えアドバイスし、時には一緒に実践し学んでいく。

教師はそういう「支援者」「伴走者」としての方向へシフトして行く必要があるのだと思います。

 

 

 

◆『ファシリテータ』としてのスキル

 

一人一人が自由により良く生きようとすると、必ず他人と衝突やトラブルが起きます。

これをお互いが納得した形で解決するためには、お互いがきちんと「対等な立場で対話する」事が必要です。

 

しかし日本人はこういう「対話」が苦手です。

お互いの「意見」を交わしているだけなのに、いつしか人格攻撃に発展してしまったり、自分の人格を否定されたような気持になってしまったりします。

それは個人の対話の能力がもともと低いのではなく、「対話の技術」を身につけていない(知らない)だけなのだと思います。

だとすれば解決方法は簡単で、一人一人が「対話の技術」を身につけることで解決するはずです。

 

学校で子ども達に「対話の技術」を教えるためには、教師もまた「対話の技術」を身につけなければなりません。(知らない事は教えられないので)

 

会議の円滑な進行を担うこの「ファシリテータ」の技術は、職員会議やクラス会議など、学校の様々な対話の場で役に立つ非常に重要なスキルの一つであると言えます。

 

(補足)

ファシリテーターとは、ファシリテーションといった能力を活用しながら、会議などの場で参加者に発言を促したり、話の流れをまとめたりする人のことで、下記のような役割を担います。

 ・ 会議や研修などの進行役

 ・ 参加者に発言を促すサポート役

 ・ 会議や研修の目的であるゴールに参加者を確実に導く誘導役

 

 

 

 

◆『サイエンス』と『エビデンス

◆『〇〇らしさ』という固定概念からの脱却

 

学校にはまだまだ「精神論」や「根性論」などによって、その根拠が無い謎ルールが多く残っています。

 

また、校則によく見られる「中学生らしさ」「高校生らしさ」など、「誰の主観で決めてるねん!」とツッコみたくなるものも根強く残っています。

(余談ですが、ビックリ校則の中の「ポニーテールは男子がうなじに欲情するから禁止」などもその最たるもの・・・。男子生徒じゃなくて男性教員の主観では?・・・と疑いたくもなる。)

 

校則でもなんでもそうですが、生徒に聞かれた時にキチンとその理由や根拠を説明できないものは、きちんと説明できるものへと変えて行くべきです。

 

それは、教員の仕事についても同じです。

勤務時間内の業務については「職務命令」ということで強制力がありますが、勤務時間外の活動については業務として強制することはできません。

(それをしたら労働基準法違反です。)

しかし「生徒の為に」という殺し文句で生徒を人質に取り、「やりがいを搾取する」という構図が未だなお残っています。

 

「なぜ勤務時間外の業務を実質的に強制しているのか?なぜそれが許されているのか?」その根拠を明確にせず、堂々と労働基準法違反になるような働かせ方をしている学校のシステムもまた早急に改善されるべきです。

(「給料4%上乗せで働かせ放題」の給特法がその最たるもの)

 

 

生徒に関わる校則や教員の働かせ方など、きちんとその「根拠」を示し、学校に関わる全員が納得するようなルールやシステムに変えて行かなければなりません。

 

 

 

 

◆『カウンセラー(心理学)』

 (専門性がとても高いので、可能なら・・・)

 

生徒の行動を、ただ「良い」「悪い」だけで判断するのではなく、その行動の裏には何があるのか?それを理解することはかなり重要な事です。

 

これが出来れば、問題行動などが起こった時だけ場当たり的な対処をするのではなく、それが起こる前に対処することが出来ます。

困りごとを抱えている生徒の早期発見にも繋がります。

 

ただ、とても専門性が高いのですべての教員が身につけることは無理かもしれませんが、せめてそれぞれの学校に心理の専門家(カウンセラーなど)が常駐するぐらいにはなっても良いのではないかと思います。(予算の問題もあるのでしょうけれど・・・)

 

 

 

 

 

◆『授業力』よりも、まずは『人間力

 

教師として「授業力」ももちろん大切だとは思いますが、私はそれ以前に「人間力」が大切だと思っています。

 

なぜなら、「信頼」していない人の言葉は相手には届かないからです。

どんな良い授業をしたとしても、生徒と信頼関係が築けていなければ、その言葉は届きません。

 

ましてや、これからは「主体的な学び」「協働的な学び」「個別最適化な学び」などがより推進されていくので、教師が一方的に伝える技術よりも、共に考え歩んでいくための「寄り添う技術」の方が、これからはより必要になって来ると思います。

 

 

 

 

◆『教師自身が幸せな人生を歩む』こと

 

生徒にどんな良い事を伝えようとしても、

 

自分自身が不幸だったら、その言葉には説得力がありません。

 

自分自身が様々な経験をし、

 

何気ない日常生活の中で自分自身が感じている「幸せ」。

 

そんな人生を歩むには、今何をすればよいのか?

 

どんなことを学べばよいのか?

 

それを伝えられる人間になる。

 

それを伝えられる人生を歩む。

 

それが「教師」にとって最も大切なスキルなのかもしれません。

 

 

学校教育を考える④『これからの学校の在り方を考える』

なんだかんだ教育や学校について色々と書いてますが、

私も学校教育に関わる一人の教員であり、

決して「学校はいらない」とか「学校はくだらない」とか思っている訳ではありません。

 

 

むしろ、「学校」「公教育」はあった方が良いに決まっています。

 

 

なので今回は、

「じゃあアナタはどうしたいの?」

「アナタはどんな学校が理想なの?」

って事を書いて行こうと思います。

 

 

 

 

 

◆『日本財団の18歳意識調査』より

 

これはとても有名な調査結果なので見た人も多いのではないでしょうか?

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日本財団「18歳意識調査」第20回 テーマ:「国や社会に対する意識」(9カ国調査) | 日本財団

 

「自分を大人だと思う」や「自分で社会や国を変えられると思う」など、すべての項目が9か国中最低です。

 

これを証明するかのように言われているのが「若者の投票率が低い」という言葉です。

ですがこの言葉だけ聞くと、あたかも「投票に行かない若者が悪い」ような捉えられ方をすることがありますが、決してそうではないと思います。

 

自分に自信を持てず、世の中の事を「自分事」として捉えられないような若者を多く育てて来たのは、間違いなく我々大人であり「学校」という場所です。

 

それを差し置いて「若者が悪い」などどいうのはあまりに身勝手な理論ではないでしょうか?

それに、この意識調査は「18歳」となっていますが、実は私たち大人にこそ当てはまるものなのだと感じています。

 

このような意識を変えて行かなければ、社会はより良く変わるはずがありません。

学校や教育の在り方を変えるためには、この調査結果を「他人事」ではなく「自分事」と捉え、まず私たち大人が意識を変えて行くという事が大前提です。

 

 

 

 

 

◆『教育の過剰サービス産業化』をやめる。

 

正直、私は今の学校は「教育の過剰サービス産業」だと感じています。

 

例えば、

『勤務時間外に部活動をするのは当たり前』

『生徒の為に自己犠牲できる教員こそが素晴らしい』

『服装や頭髪が乱れるのは学校のせい』

『子どもが勉強しないのは学校のせい』

『子どもの成績が悪いのは学校のせい』

『進学・就職試験に受からないのは学校のせい』

『親の言う事を聞かないのは学校のせい』

『家で宿題をしないのは学校のせい』

『外で悪さをするのは学校のせい』

『家で態度が悪いのは学校のせい』

 

など、挙げればきりがありません。

 

 

こうなってしまっている原因の一つが「過剰に教育サービスを提供してきた学校の在り方」だと思います。

 

「お客様は神様です」と言わんばかりに地域や保護者からのクレームを恐れ、何でも言う事を聞く。

「子ども達のためだから」という想いで自分を犠牲にし、良かれと思って全てを解決する。

 

その結果、『学校に言えば何でもしてくれる』『「先生」なんだから、子どもの事は自分を犠牲にしてでも全部引き受けて当たり前』などという風潮が根付いてしまう。

そこからさらに、『子どもについてのことは全部学校が請け負ってくれるから、学校に通報して全部解決してもらうのが当たり前』『もし解決できないなら、それは全部学校が悪い』という誤った価値観を身につけることになる

 

 

学校には「学びのセーフティーネット」としての機能は必要です。

学校内での事については当然責任があります。

しかしだからといって、

『子ども達の全てを背負う』場所ではありません。

 

 

この過剰なサービス産業を続けて行けば、生徒の主体性は失われ、保護者や地域の大人が子どものことを学校任せにし、「他人事」としてしか考えなくなります。

そして最終的には、子どもも大人も「自分の人生がうまくいかないのは、学校がちゃんとしてくれなかったからだ」と、学校や他人に責任をなすりつけるようになります。

 

このような悪循環を止めるには、「学校が負うべき責任」「保護者が負うべき責任」「地域の大人が負うべき責任」をしっかりと分離して、その課題や問題が「学校が解決すべきものなのか?」「保護者が解決すべきものなのか?」「地域の大人が解決すべきものなのか?」それとも「共に協力して解決すべきものなのか?」をしっかりと見極め、今すぐ『教育の過剰サービス産業化』をやめる必要があると思います。

 

 

 

 

 

※ちょっと書きすぎて長くなってるので、

これ以降はなるべく簡単にいきます!(汗)

 

 

 

 

◆教師も生徒も『自由(権利)』と『責任』を意識する。

◆ちゃんと『主権者教育』をする。

◆『独裁国家から民主主義国家へ』

 

今の学校現場では、教師も生徒も「責任」だけが与えられ、「権利」については多くは与えられていません。(というか教えられていない。教えると都合悪いのか??)

 

「責任」だけを与えられ「権利(自由)」が無いのはとても不条理です。

モチベーションも上がりませんし、『どうせ何を言ってもムダ』というあきらめの空気感しか生まれません。

 

 

教員には、学校運営や教育目標、それに伴う生徒への指導の在り方などを話し合い意見を伝える場が必要です。

これが無いと、情熱を持っている真面目な教員ほど息苦しくなり、やがてやりがいを失い心を病む、もしくは希望を失い現場から去ってしまいます。

「校長独裁」の学校現場では、より良い教育のカタチは実現できません。

 

 

生徒もまた、自分たちが感じている息苦しさや理不尽さ、それを変えたいと思う気持ちを、いつでも伝える場・話し合える場が必要です。

民主的な学校の学びの主権者は「生徒」であり、自分の考えを発信し変えて行ける「権利」があるという事も併せて教える必要があります。(主権者教育)

そうする事によって、生徒は「自分も社会の一員である」「自分たちで社会をより良く変えて行ける」という意識を育む事にも繋がります。

 

 

『人間は自由に生きて良い(権利)』

『社会と調和して生きる(責任)』

 

これをしっかりと意識したいものです。

 

 

 

 

◆『競争原理』から『協力原理』へ

◆目に見えない数字を大切に『脱・結果評価至上主義』

 

今の学校には多くの「競争」があります。

「成績・順位」

「部活の試合結果」

「受験(進学・就職)」

「体育祭の順位」

「スポーツテストの順位」

 

など、

常に何らかの「評価」「順位」「結果」

がつきまといます。

 

もちろん、

「成績が良い」

「順位が上」

「結果が良い」

という生徒が、

「できる生徒」であり「良い生徒」

という評価を受けます。

 

という事は、逆であれば

「できないダメな生徒」であり「悪い生徒(問題児)」

となります。

 

 

しかし、これはあくまで人間全体の「一部の結果」に過ぎないはず。

 

 

ですが仕組み上、学校は生徒を「数字で評価」しなければならず、

数字で表せないような事が得意だとしても「良い生徒」と評価されません。

(これは教員が悪いのではなく、システムの問題だと思います。)

 

だからこそ、数値化できないような人間力(いわゆる非認知能力)にも、きちんと目を向けて行く必要があると言われているのだと思います。

 

 

また、評価や結果にとらわれ過ぎることで、

「お互いの足の引っ張り合う(エスカレートするとイジメにもつながる)」

「成績を上げなければいけないという追い詰められた思いが、カンニングなどの不正行為につながる」

「ブラック労働」

体罰や暴言などの行き過ぎた指導」

「評価を気にするあまりの事なかれ主義」

「出来ない生徒を排除しようとする」

など、多くの問題を発生させる原因にもなります。

 

 

『多様性』や『個性』を尊重し、そこに住む全員がwin-winな関係性を築きつつ豊かな社会を実現するためには、人間を「数字の評価」や「結果」をもとにした競い合い「競争原理」に基づいた社会から、一人一人が違うその個性や能力を適した場所でより良く発揮していける「協力原理」に基づいた社会にシフトして行く事が必要だと強く感じます。

 

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余談ですが・・・

教員なら知っていると思いますが、来年度から成績の評価の仕方がガラリと変わります。その中身は「トンデモない労力の割にはきちんと評価できない」ような内容で、「説明責任を果たすための評価方法」でしかないものに感じます。

なぜここまで「数値による評価」にこだわり続けるのか、全く理解できません。

 

生徒や教員に課せられている「評価」の在り方を、本気で見直していく必要があると強く感じます。

(そのためには、学力重視の入試や就職試験の在り方なども同時に変えて行く必要があるのですが・・・なかなか難しいのかなぁ。。。)

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◆『教師も一人の人間である』

◆『働き方改革』の本当の意味

 

言わずもかな、

「教師も人間」です。

「教師も労働基準法にのっとって働く、一人の労働者」です。

「公立の教師は公務員なので『全体の奉仕者』ではありますが、『奴隷』ではありません。」

 

 

今、学校では学力以外にも「主体性」「多様な他者と協働する力」「社会的・職業的自立に向けて必要な基盤となる資質・能力」などと言った、いわゆる「人間力」とも言えるような力を育んで行かなければなりません。

(一応、そういう事になってます 汗)

 

それを学校で教えるのは誰か?

もちろん「教師」です。

 

ということは、

その「教師」が、

 

「主体性とは何か?」

「他者と協働するとはどういうことか?」

「多様性とは何か?」

「個性を尊重するとはどういうことか?」

自己実現するためには何が必要なのか?」

「幸せな人生を送るために必要な事は何か?」

 

などの事を、

教師自らが実践し、それを体現し理解しなければ、子ども達教えることは出来ません。

単純に、知らない事は教えられないからです。

 

 

 

しかし今の教師には、このような事を自らの生活の中で実践し経験するための時間も余裕もありません。

「ブラック労働」と言われるような過酷な労働環境で、余裕もってしっかりと子ども達と向き合うことが出来るでしょうか?

幸せを実感できないような労働環境や人生で、子ども達に何を伝えられるのでしょうか?

 

 

教師の「働き方改革」の核心は、このような課題を解決するためのものであり、決して「休みを取ればいい」とか「時間外労働を減らせばよい」というだけのものではありません。

教師という一人の人間(大人)は、「心身ともに健康で、人間的魅力に溢れ、大人として社会で生きて行く事はこんなに素晴らしいし幸せな事なのだという事を、身をもって体現できる人材」でなければなりません。

それを実現するためには、自己研鑽を積んだり、学校以外での多様な価値観を知る機会を得るための「時間」や「余暇」が絶対に必要です。

 

『働き方を変える』ことで一人一人の教師が人間的により良く変わる。

結果、学校も子ども達もより良く変わる。

だからこそ「働き方改革が必要」なのです。

 

 

教師が魅力に溢れた一人の「自立した人間(大人)」であることで、

その想いや言葉をしっかりと子ども達に届けることが出来ます。

 

 

 

学校教育を考える③『学校の多くは独裁国家』

生徒に大きく関係する、制服や頭髪などの校則の問題。

教員に大きく関係する、部活動を始めとしたブラック労働の問題。

 

これらの問題は別物ではあるけれど、その根底はつながっている気がする。

 

 

一言で言えば、

『多くの学校は、民主主義ではなく独裁国家

だからだと思う。

 

 

「そんなことは無い!」

と言いたい教員も多くいると思うが、

残念ながら一般的な多くの学校が独裁国家なのは間違いない事実。

 

 

なぜなら、

学校を一つの国家として見たとき、

一番権利を持っている「主権者」が誰なのかを見ればわかります。

 

もし独裁国家なら、その国の首長が主権を持ち、

もし民主主義国家なら、国民がその主権を持っているはず。

 

 

 

さて、今の学校での主権者は誰か?

ズバリ、学校の主権者は「校長」です。

 

 

 

例えば大分県では、平成24年に以下のような通知を各学校に出しています。

(以下、大分県教委が各学校に通知した文書の一部)

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2 職員会議の役割の明確化について

職員会議は校長の補助機関として、学校運営に関する校長の方針や様々な教育課題への
対応方策についての共通理解を深めるとともに、生徒の状況等について担当する学年・学級・教科を越えて情報交換を行うなど、教職員間の意思疎通や情報の共有を図る上で重要な意義を有するものである。
しかしながら、一部において、校長と教職員の意見や考え方の相違により、職員会議の
本来の機能が発揮されない場合や、法令の規定に反し、職員会議があたかも意思決定権を有するような運営が見受けられる。そこで今回、校長の職務の円滑な執行に資するため、職員会議が法令の規定に沿ったものとなるようその役割を明確化したものである。

 


(1) 職員会議において、本来、校長の責任で決定する事項を不当に制約するような運
営や議決により校長の意思決定権を拘束するといった運営は認められないこと。
(2) 校長が校務に関する決定等を行うに当たって、職員会議において所属職員等の意
見を聞くことが必要な場合においても、「挙手」や「多数決」等の方法を用いて職
員の意向をはかることは運営委員会の機能を否定することになりかねないばかりで
なく、校長が自らの責任で決すべき意思決定に少なからず影響を与え、同会議が実
質的な議決機関となりかねない。このため職員会議において「挙手」、「採決」等の
方法を用いて職員の意向を確認するような運営は不適切であり、行わないこと。
(3) 職員会議で取り扱う報告、意見聴取及び連絡に関する事項は、運営委員会を経た
上で、事前に副校長又は教頭に提出したものであること。ただし、校長が運営委員会を経る必要がないと認めたものについては、この限りでない。


(以下略)


全文はコチラ

⇩⇩⇩⇩⇩⇩

https://www.pref.oita.jp/uploaded/attachment/2003492.pdf

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この文書にあるように、

『職員会議において「挙手」、「採決」等の方法を用いて職員の意向を確認するような運営は不適切であり、行わないこと。

とハッキリと書かれています。

また、実質的な決定機関である「運営委員会」にも、特定の教員しか参加できません。

 

つまり、「一般の教員は職員会議で意見を言う資格も無いし、学校の在り方をとやかく言う資格も無い。」という事に他なりません。

 

 

 

 

 

では今度は生徒にとってはどうなのかを考えてみます。

もし学校が民主主義国家なのであれば、国民に相当するのは「生徒」であり、「生徒が主権者」という事になるはず。

 

ですが実際は、

「校則などのルールは学校側が一方的に決定したことを生徒に押し付けているだけ」であって、そこに生徒の意志・意見はほぼありません。

 

(少し前、県教委から「校則について生徒の意見を聞きなさい」という通達があり、生徒にアンケートを取ったのですが、アンケートを取る前に全校集会で「余計な事は書くなよ。良く考えて書け、わかってるな?」と、暗に生徒に圧力をかけたうえで実施しており、実感としては「帳面消しの為に、ただやっただけ」としか思えませんでした。泣泣泣)

 

また、各学校に「生徒会」もありますが、そこに生徒の意志決定の仕組みは無く、実質的には「教員の下請け機関」のようになってしまっているように感じます。

 

 

 

 

 

「じゃあ完全に一回壊さないと無理なんじゃないの?」

と思えるかもしれませんが、

カタチは校長主権の独裁国家でも、

運営の仕方によっては十分「民主主義」にもなりえると思います。

 

 

例えば、

『教員は、生徒や保護者と健全なコミュニケーションを通して意見交換し、その意見を学校に取り入れようと動いている。』

 +

『校長が日常的に教員と対等に意見交換し、その意思や価値観を尊重し、学校運営方針に取り入れるべくマネジメントしている。』

という取り組みがなされていたりすれば、可能性はあると思います。

(まぁほぼそんな話は聞いたことは無いですが。汗汗汗)

 

 

 

 

 

 

 

本来、学校は「民主主義」を学ばなければならないはずの場所。

なぜなら、日本は「民主主義国家」だから。(資本主義も入ってるけど。)

そんな将来の日本を担う子ども達が学ぶ場が「独裁国家」で良いとは思えません。

 

 

学校が「生徒全員が安心してより良く学べる場」であり、「社会と調和して自立して生きていける大人になるために学ぶ場」であるためには、そのルールやあり方が特定の人間だけの意志や価値観だけで決定されるのではなく、主権者である「生徒」、そしてそれを支援する教員や保護者など、学校に関わる全ての大人が当事者として、対等で丁寧な対話を通して決められて行く必要があると思います。

 

 

 

対話には時間も労力もかかります。

独裁の方が、話も早いし管理する側にとって都合が良いでしょう。

 

でもそれでは「自立」した生徒は育ちません。

「自分の幸せ」と「社会の幸せ」に責任を持てる生徒は育ちません。

 

 

失敗も成功も貴重な経験です。

学校が少しでも早くこの独裁国家から脱却できるように、私自身もできる事を最大限の勇気を持って取り組んで行きたいと強く思います。

 

 

 

学校教育を考える②『部活動』

今回のテーマは『部活動』。

校則と並んで昨今の話題に上がるテーマの一つ。

 

 

なぜ話題に上がるのかと言えば、「部活動」と「ブラック労働」は明らかに繋がっているから。

 

 

ちなみに、教員が部活動で時間外(放課後や休日)勤務した場合、どれぐらいの報酬(残業代)が貰えるのかといえば、

 

・平日の放課後の残業代はゼロ。

・土日祝日は「特殊勤務手当」として以下の額。

  2時間以上3時間未満 1,800円

  3時間以上4時間未満 2,700円

  4時間以上 3,600円

  なお、土日祝日に部活動で勤務する場合の交通費支給(高速代含む)はゼロ。

※ちなみに私の所属する自治体では、部活動や補習・生徒指導などによって勤務時間を超過することも考えられるという業務の特殊性を鑑みて「調整額」という名目で毎月4%一律で給与が増額されています。(給特法とも言うのかな?)

 

例えば部活動指導で、

・基本給 300,000円

の教員が、

・平日20日間、時間外勤務16:40~19:40

・土日祝日8日間、時間外勤務9:00~12:00

時間外勤務したとすると、

部活動指導で毎月貰える金額は実質、

土日祝日の ¥2,700×8日 = ¥21,600

調整額 ¥300,000×0.04= ¥12,000

¥33,600円(土日の交通費は自腹)

となります。

 

これを時給換算すると・・・

33600÷(3時間×20日+3時間×8日)= ¥400

時給¥400円で時間外勤務(残業)している事になります。

(自腹の交通費を含めると、遠方から来ている先生は完全にマイナスだそうです。)

 

これが『教員定額働かせ放題!』と言われている所以です。

 

 

 

 

でも、

これはさすがにイカんじゃないか!!

という事で平成31年中央教育審議会より答申が出されました。

 

 

以下、平成31年中央教育審議会答申より

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新しい時代の教育に向けた持続可能な学校指導・運営体制の構築のための学校における働き方
改革に関する総合的な方策について(答申)【概要】 (平成31年1月25日中央教育審議会)


第1章 学校における働き方改革の目的
〇 これまでの我が国の学校教育の蓄積はSociety 5.0においても有効であり、浮足立つことなく充実を図る必要。これまで高い成果を挙げてきた我が国の学校教育を維持・向上させ、持続可能なものとするには、学校における働き方改革が急務。
〇 ❛子供のためであればどんな長時間勤務も良しとする❜という働き方の中で、教師が疲弊していくのであれば、それは❛子供のため❜にはならない。
学校における働き方改革の目的は、教師のこれまでの働き方を見直し、自らの授業を磨くとともに日々の生活の質や教職人生を豊かにすることで、自らの人間性や創造性を高め、子供たちに対して効果的な教育活動を行うことができるようになること。
〇 志ある教師の過労死等の事態は決してあってはならないものであり、そのためにも、学校における働き方改革の実現が必要。

(以下略)

全文はコチラ

⇩⇩⇩⇩⇩⇩

https://www.mext.go.jp/component/b_menu/shingi/toushin/__icsFiles/afieldfile/2019/03/08/1412993_4_1.pdf

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が・・・・

この答申から3年が経ち、今はもう令和4年。

 

 

 

 

何も変わってねぇ!!!!

 

 

 

 

そこにさらなる追い打ちをかけるように、

メディアで報じられるのは、

『教員不足』

『志願者倍率が下がり、教員の資質が低下』

など、

あたかも現職教員を批判したり、教員や教員を志す人間が居ない事だけが問題かのような記事ばかりで、答申から3年経っても全く変わらない学校現場の労働環境やシステムを問題視する記事がほとんど出て来ない現実。

 

 

 

正直、この部活動の問題をどんな方法で解決するのがより良いのかは私も模索中ですが、例えば、

・業務として学校から完全に切り離し、外部委託。(学校の施設は使ってOK)

・部活動したい教員は時間外に「副業」という形で関わる。

・「調整額」や「特殊勤務手当」という誤魔化しを廃止し、正規の残業代を支給する。

・大会は学校名でしか出場できないので、高体連などの協力も必要。

などが考えられますが、もっといい案が他にあるかもしれません。

 

とにかく、

早急に何とかしないとかなりヤバい状態だと強く感じています。

 

 

 

ん?

『嫌なら断ればいいじゃん。』

ですって?

 

 

おっしゃる通り。

でもね、

断ろうとすると、

『あなたが引き受けてくれないと、子ども達が活動できないんです!』

って、

子どもを人質に取って脅されるんです。

 

場合によっては、

「アナタそれでも教員ですか?」

ってダメ教員のレッテルを貼られることもあるんだそうです。

 

 

 

教員も人間です。

教員も一人の労働者です。

教員は公務員なので「全体の奉仕者」ではありますが「奴隷」ではありません。

それとも、スーパー〇イヤ人か何かと勘違いしてます?

 

 

 

これから体や心を壊した病休者がますます増え、

志願者も減り、

それでも自治体は断固として教育にお金を使わず、

結果、教員は増えず、

年度末には教員が居ないと騒ぎ、

結局見つからずに現場の教員の負担がますます増え・・・

(最初に戻って負の無限ループ)

 

このままだと、子どもたちの為に働きたいと本気で思う教員が居なくなります。

 

 

学校教育を考える①『校則』

今、良くも悪くも注目されている「校則」。

その中でも特に「制服(服装)」と「髪型」に注目が集まっています。

 

 

私が教員生活の中でよく耳にしてきた言葉。

一例を挙げれば、

「服装の乱れは心の乱れ」

「学校に来るのに個性やオシャレは必要ない」

「365日今すぐにでも面接を受けられる髪型にしておかなければならない」

「きちんと制服を着て〇〇高校生としての自覚を持ち、心をひとつに!」

など。

 

 

私は教員ですが、

もちろんこれには全く納得していません。

 

 

なぜなら、

 

 

『服装の乱れは心の乱れ』

→ そもそも順序が逆。服装が乱れたから心が乱れたのではなく、心が乱れた(心に問題が起きた)からそれが服装に現れただけ。

「服装の乱れ」がそんなに気になるのであれば、シャツを入れろだのボタンを留めろだのといった見た目だけの指導する前に、その子が制服をきちんと着ていないのはなぜだろうか?という事に目を向け、それを解決するためにどういった支援が必要なのか?という事を考えるのが先だと思う。

また、「制服や髪形などのルールを緩めると学校が荒れる」といった事もよく聞く話だが、これもただの迷信だと思っている。

なぜなら、この理論で行くと「髪型や服装は自由な学校は全て荒れている」という事になる。

長野県の公立高校の半分は私服らしいので、この理論から言えば長野県の半分の公立高校は荒れていなければおかしいが、そのようなことは全く聞いたことは無い。

 

 

『学校に来るのに個性やオシャレは必要ない』

→ 確かに勉強するその瞬間だけを見れば、オシャレは必要無いかもしれない。でも学校は勉強をするためだけに来るところではない。

勉強・人間関係・自分自身の在り方や生き方を考える事。それらをひっくるめて「学ぶ場所」。それが学校であるはず。

思春期を経て社会人へ成長していくこの時期。見た目や異性を気にし始める、他人を意識するというのは人という生物として当たり前の事。

自分自身を知り、自分自身の魅力や能力を、試行錯誤しながら開花させていく。

心と体は一体で分割できない存在である以上(アドラー心理学より)、その日の髪形や服装によって気分を整えて行く事、そしてその手段を知り実践することは、学校でのより良い学びに繋がっていくものだと思う。

 

 

『365日今すぐにでも面接を受けられる髪型にしておかなければならない』

→ 単純に「なんで??」としか思わない。面接で好印象になるように髪型を整えることなんて、前日に床屋に行って「明日面接なんで清潔感のある髪型にしてください」って言えば1時間でできる。

「いつもその髪型にしておかなければ面接に行けない」なんて、何の都市伝説だろうか?

ちなみにほとんどの学校は「整髪料や化粧は禁止」にしてるけど、社会人としてのマナーは逆だよね?

寝癖を直して整髪料で髪型を整える。女性はすっぴんの方が指摘されることが多いので化粧をする(職業にもよるけど)。社会人なら当たり前のようにやっている事。

これらを学校で禁止しておいて、いざ卒業したら「自分で考えてやれ」という理不尽。

何のための教育なのか?学校なのか?本当に意味が分からない。

 

 

『きちんと制服を着て〇〇高校生としての自覚を持ち、心をひとつに!』

→ 軍隊か?そもそも心は一つにはならないし、教育で大切にしなければならない多様性や個性はどこ行った??

大切なのは見てくれの統一感ではなく、「この学校に居場所がある」「この学校の生徒で良かった」と思える「所属感」なのではないだろうか?

それは日ごろからの学校生活の日常において積み重ね養われて行くものであり、生徒同士・教師同士・教師と生徒の信頼関係の構築でしか手にすることはできないと思うし、そこに服装や髪形は何の関係も無い。ましてや「同じ制服を着る」ことで獲得できるような安易なものでも無いと思う。

 

 

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まぁ、色々ともの思う事はあるのですが、

こういう事を考えるとき、いつも思い出す言葉があります。

 

 

APU(立命館アジア太平洋大学)の学長である出口治明さんの言葉。

『今の学校に一番足りないのはサイエンス(科学)とエビデンス(根拠)である。』

 

東京大学名誉教授である汐見稔幸さんの言葉。

『学校はもっと「そもそも論」を議論すべき』

 

 

これらの言葉が全てではないだろうか?

 

「そもそも学校は何のためにあるのか?」

「その目的を達成するのに最適な手段とは何か?」

「そのルールにしている論理的・科学的な根拠は何なのか?」

「そもそもこのルールはなぜあるのか?」

「本当にこのルールが適切なのか?」

 

学校が本当により良い学びの場であるために、一度ゼロベースで考え直してみる時期に来ているのではないかと感じます。

 

 

学校教育と対話

今学校教育に一番足りないもの。

それは『対話』だと感じています。

 

「先生」と「生徒」の対話。

「生徒」と「生徒」の対話。

「先生」と「先生」の対話。

 

その全てが足りていない。

 

 

生徒は、

・毎日朝から夕方までぎっちりと詰まった時間割。

・先生によって言動を厳格に管理された授業。

・放課後は部活動や塾。

・家では宿題。

・苦手で出来ない事があれば、放課後であろうと何だろうと出来るまで延々とさせられる。

・宿題を忘れるなどのミスをすると徹底的に怒られ追い込まれる。

など、心も体も余裕が無く、常にプレッシャーを与えられる。

そんな状況では「何でも先生に相談して」って言われたって無理だし、「みんな違ってみんな良い」なんてことを受け入れる余裕も無い。

また、心と体の余裕も無いのに、「夢や希望を見つけろ!」「夢や目標を持て!」と言われても、無理に決まってる。

 

 

先生は先生で、

・静かに席に座らせて私語をさせないのが指導力のある教師(右へならえをちゃんとさせることが出来るのが良い教師)という呪いの価値観。

・学校の「評価」を上げるために、良い学校へ進学させる、良い会社に就職させることに躍起になる。

・そのために生徒に勉強や宿題を徹底的にさせて「評価」を上げることが最優先。

・意味の分からない「やってる感」満載の仕事がお上からやってきて、結果ビルド&ビルドで積み重なっていく仕事。

・生徒に向き合うヒマもなく、起こるべくして起こる生徒の問題行動。時間が無いので対処も場当たり的なやっつけ対応。

・責任を取りたくない管理職

 

などの要因で余裕がない。

「対話」なんて言ってるヒマも無い。

 

全ての学校がそうとは言いませんが、かなりの部分が当てはまるのではないでしょうか?

 

 

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人間関係の基本となる「信頼関係」。

そのほとんどは「対話」を通して作り上げていくものです。

その「対話」が、子ども達を育てて行く「学校」で十分に行われていないという事は、「信頼関係」を築く術を知らないまま社会へ送り出すという事。

 

「信頼関係」を気づく術を知らない人が増えてしまえば、本当に殺伐とした社会になりかねません。

また、仕事の効率も上がらず、いつまで経ってもジリ貧で閉塞感から抜け出せません。

SDGsで言われているような「誰一人取り残さない社会」も実現できません。

学校でのいじめ問題や、主体性が無い人が増えていると言われている原因の、かなりの部分がここに関係しているのではないでしょうか?

 

 

 

現在の学校や教育が、子ども達や先生達にとって「息苦しい(生き苦しい)」ものになってしまっています。

その大きな理由としては、「学びの主体者である子ども達」と「それを支えて行く先生」といった現場の声が、学校運営にほとんど反映されていないという事なんじゃないかと感じます。

 

 

生徒の意見を聞く場のはずの生徒総会は、生徒から出された意見は事前に先生によって検閲され、学校にとって都合の悪い事は議論されず、生徒を言いくるめるだけ様な根拠が無い形での回答しかなく、総会が形骸化している。

 

 

先生の意見を学校運営に反映させるための職員会議も、事前に管理職等で行う「運営委員会」で決まったことが絶対であり、会議で発せられた先生の意見はほとんど通らない。(聞いたフリはするが、最終的には「すでに運営委員会で決まったことです」の言葉で切られてしまう。)

「会議」とは名ばかりで、ただの連絡調整の場でしかなく、「先生方の意見も一応聞きましたよ~~」という管理職の実績作りの場に成り下がっており、これも形骸化している。

 

 

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ちなみに、本来の「職員会議」の立ち位置とはどのようなものなのか?

広島県教育委員会のホームページにはこう書かれています。

 

「職員会議」は、学校運営が円滑に行われるように、校長が、所属職員の意見を聞いたり、校長の運営方針を周知させたり、職員相互の事務連絡を図るものであり、意思決定は、校長自らの権限と責任において行う。つまり、校長が職務遂行するに当たって、それを補助する機関として位置づけられるものです。

~途中略~

 かつて、職員会議を「最高議決機関」として位置づけることが一部において主張されていました。

 しかし、職員会議を最高議決機関とする説は矛盾点が指摘される中、判例においても否定されています。

 つまり、学校教育法第28条第3項では「校長は、校務をつかさどり、所属職員を監督する」と規定し、校長は法令や教育委員会の指揮監督に従い、学校の責任者として教育活動が円滑に行われるよう、所属職員を指導監督し、校務運営を行っていくことが定められており、職員会議を最高議決機関とすることはあり得ないのです。

 しかしながら、学校教育法などの法令では、特段の規定がおかれていなかったため、間違った解釈での主張が展開され、一部の学校においては、主任の任命等にも影響を及ぼしていました。

 このような状況から、広島県では平成11年3月に「広島県立高等学校等管理規則」及び「市町村立小中学校管理規則規則(案)」を改正し、「校長は、校務運営上必要と認めるときは、校長の職務の円滑な執行を補助させるため、職員会議を置くことができる。」、「職員会議は、校長が必要と認める事項について、教職員間の意思疎通、共通理解の促進、教職員の意見交換などを行う。」、「職員会議は、校長が招集し、主宰する。」、「(前項に掲げるもののほか)職員会議の組織及び運営について必要な事項は、校長が定める」と、職員会議が「校長の補助機関」である旨を規定しました。

 

 

となっています。(長くてスミマセン 汗)

つまり、先に書いたような、

「運営委員会でもう決まったことだから、どんなに意見を言われても変えられません。この案で行きます!」

なんて事は、本来あってはならない事なのです。

 

 

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最初に書いた通り、学校には「対話」が必要です。

「生徒」も「先生」も人間です。

社会で生きている大人達もまた人間です。

 

人間がより良い社会を形成するためには、「自己受容」「他者信頼」「他社貢献」がうまく繋がる必要があり、それを作り上げていくためにも「対話」が絶対に必要です。

 

子ども達の学びの場である「学校」という場所が、「どのような学びの場を目指していくべきなのか?」「どのような学びの場であって欲しいのか?」という事について、そこに関わる生徒・先生・保護者・地域の大人達でしっかりと「対話」を繰り返し、「学校」が皆にとってより良い学びの場となる事を目指し、失敗を恐れず実践しながら作り上げていくという事が何より必要な事なのではないかと感じます。