2025年の備忘録(チャッピー君に聞く)その2

今回はもうちょっと具体的に聞いてみた。

 

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【質問4】

ちなみになんだけど、授業中に学習用タブレットでつい関係ない動画を見てしまったり、居眠りしてしまった生徒に対して、厳しく叱責したり、一人一人のタブレットの中を確認したり、「学ぶ気がないなら辞めろ」と発言するのはどう思う?生徒も人間だし、毎日6時間目までぎっしりと授業が入っているのを考えると、少しやりすぎな気がするんだけど。

 

〔回答〕

あなたの感覚は、かなり教育的にまっとうだと思います。
結論からはっきり言います。

授業中にタブレットで関係ない動画を見たり、居眠りした生徒に対して、
厳しい叱責・端末チェック・「学ぶ気がないなら辞めろ」という発言を行うことは、
主体性を育てる教育としても、高校教育としても「やりすぎ」であり、適切とは言えません。

以下、感情論ではなく、段階を分けて整理します。

 

① まず大前提:それは「問題行動」か?

正直に言えば、

・6時間目

・1日中座学

・成長期・睡眠不足

・デジタル端末が常に目の前

この条件で
集中が切れる・眠くなる生徒が出るのは、人間として自然です。

👉 これは
「人格の問題」でも
「学ぶ気がない証拠」でもありません。

 

② 厳罰・叱責で何が起きるか
短期的には

・表面的に静かになる

・画面を切り替える

・眠気を必死に我慢する

しかし長期的には

・見えないところでやる

・教師を警戒する

・授業=監視の時間になる

・内発的動機は確実に下がる

👉 学習の質は上がりません。

 

タブレット中身の一斉チェックの問題点

これは特に注意が必要です。

・生徒にとっては「監視」「捜索」に近い感覚

・信頼関係を一気に壊す

・「どうせ見られる」という受動姿勢を強化

主体性に必要な

・自己管理

・判断

・責任

を、教師側が全部奪ってしまう行為です。

 

④ 「学ぶ気がないなら辞めろ」という言葉の危険性

これは、これまでの話の中でも最も強い否定です。

この言葉が生徒に与える影響は、

・疲れている=価値がない

・集中が切れた=排除対象

・つまずき=不適格

👉 教育ではなく、切り捨てのメッセージです。

特に高校生は、

自尊感情が不安定

大人の言葉を強く内面化する

ため、深い傷になることもあります。

 

⑤ 主体性の観点で見ると決定的な矛盾

主体性を育てるには、

・失敗しても戻れる

・注意されても尊重される

・やり直せる

という「心理的安全性」が不可欠です。

しかしこの対応は、

・ミス=叱責

・気の緩み=排除示唆

疲労=自己責任

👉 主体性が芽生える余地がありません。

 

⑥ では、放置すればいいのか? → NO

ここが重要なポイントです。

あなたも感じている通り、

・何も言わない

・見て見ぬふり

も教育ではありません。

**問題は「対応の仕方」**です。

 

⑦ 教育的に望ましい対応例(現実的)
(1)まず「行動」だけに焦点を当てる

「今は動画を閉じよう」

「顔を上げてみよう」

人格や意欲に言及しない。

 

(2) 個別・短時間で声をかける

「疲れてる?」

「今のところ分かりにくかった?」

👉 公開叱責はしない。

 

(3)タブレットは「自己管理」を前提にする

・ルールを事前に共有

・違反時は理由を聞く

・必要なら一時的制限(全体ではなく個別)

 

(4)授業設計側も点検する

・45分ずっと同じ形式か?

・受け身が続いていないか?

・動き・発言・選択の余地はあるか?

👉 集中できないのは、生徒だけの責任ではありません。

 

⑧ 一番大切な視点

あなたのこの一言が、すべてを表しています。

「生徒も人間だし、6時間目までぎっしり授業が入っている」

これは
教育者として非常に健全な視点です。

主体性とは、

常に完璧であること

常に意欲的であること

ではありません。

👉
疲れても、失敗しても、立て直せる力
それを育てるのが主体性教育です。

 

⑨ 結論(はっきり)

・厳罰・監視・排除的言葉
 → 主体性を壊す

・一時的な秩序は保てても
 → 学びは深まらない

・高校教育としても
 → 過剰で不適切

ここまでの一連の問いは、すべて

「管理の学校」か
「育てる学校」か

という根本問題につながっています。

 

 

 

 

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【質問6】

こういった「授業中にタブレットで余計なものを見てないか」「寝てないか」とかを管理するのが「授業管理」といわれるものなの?

 

〔回答〕

結論(はっきり言うと)

「授業中にタブレットで余計なものを見ていないか」「寝ていないか」を細かく監視・取り締まることは、
教育学的にいう本来の意味での「授業管理」とは言いません。

それは多くの場合、
👉 「行動統制」や「生活指導の延長」
に近いものです。

 

① 「授業管理(授業マネジメント)」の本来の意味

本来の授業管理とは、

『授業が成立し、学習が進む環境を整えること』

です。

具体的には、

・学習の流れが分かる構成

・時間配分の工夫

・ルールの共有

・集中しやすい雰囲気づくり

・生徒が参加できる設計

👉 **「管理の対象は授業そのもの」**であって、
生徒の私的行動を逐一監視することではありません。

 

② よく混同される3つの「管理」

現場では、これが混ざりがちです。

〔呼び方〕: 〔中身〕
授業管理 : 学習が進むように設計・運営する
学級経営 : 人間関係・ルール・安心感づくり
行動統制 : 見張る・叱る・罰する

あなたが違和感を持っているのは、
👉 ③を①と呼んでしまっている点です。

 

タブレット監視はなぜ「授業管理」ではないのか

理由は3つあります。

(1)主体性を奪う

・自分で切り替える力が育たない

・常に「見られている」前提

 

(2)授業の質改善につながらない

・なぜ見てしまうのかは放置

・設計の問題が検討されない

 

(3)信頼関係を壊しやすい

・管理=不信のメッセージ

・授業への参加意欲が下がる

👉 これは統制であって、管理ではありません。

 

(4)では、何が「授業管理」なのか(具体例)
正しい意味での授業管理の例

・「今から10分、ここを考える」と見通しを示す

・活動を小刻みに区切る

タブレット使用ルールを事前に合意

・見て回りながら声かけをする

・集中が切れたら活動を切り替える

👉 生徒を疑うのではなく、授業を整えるのが管理。

 

(5)管理が必要な場面はあるのか?

あります。否定はしません。

・安全面(実習・危険物)

・テスト中

・明確な妨害行為

ただしこの場合でも、

・必要最小限

・一時的

・理由を説明

が原則です。

 

(6)「授業が荒れる=管理不足」という誤解

ありがちな誤解ですが、

・眠る生徒がいる

・画面が逸れる

=授業が崩壊している
ではありません。

👉 全員が常に100%集中している授業は存在しません。

むしろ、

・立て直せる

・戻ってこられる

・参加し直せる

設計こそが、授業管理の力量です。

 

(7)まとめ(短く)

・監視・取り締まり
 → 行動統制

・授業管理
 → 学びが起きる環境づくり

・主体性教育と相性がいいのは
 → 後者

あなたが感じている違和感は、
用語のズレと教育観のズレを正確に捉えています。

 

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とのこと。

自分自身の取り組みも検証しなおす良い機会になりそうだ。。。

 

2025年の備忘録(チャッピー君に聞く)その1

2025年もそろそろ終わるので、今年疑問に思いながらも解決できていないことを、いくつかチャッピー君(Chat Gpt)に聞いてみました。

 

内容は、ブラック校則などの生徒指導、生徒の時間を奪う徹底した管理教育など、未だに多くの学校に残っている旧態依然としたやり方が、本当に「生徒の主体性を育てる教育」として適切なのか?という点。

 

当然、全てを鵜吞みにするわけではなく、後での細かい検証は必要ですが、面白い回答が返ってきたので備忘録として記録しておきたいと思います。

(なかなか共感できる答え。やるなチャッピー君。。。)

 

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【質問1】

「毎日膨大な量の課題(宿題)を出し、終わらなければ厳しく叱責する。または残ってやらせる。理由は家庭学習の習慣をつけるため。」

これが主体性を育てることにつながるのか?意見を聞きたい。

 

〔回答〕

とても本質的な問いだと思います。
結論からはっきり言います。

「毎日膨大な量の課題を出し、終わらなければ叱責・居残りさせる」方法は、
原則として「主体性を育てる教育」にはつながりません。
むしろ、主体性を損なう危険性が高いと考えます。

 

以下、いくつかの項目で整理して意見を述べます。

 

① その方法で育つのは「主体性」か?

この方法で生徒に身につくのは、多くの場合

・叱られないためにやる

・残らされないためにやる

・形だけ終わらせる

・考えずにこなす

という行動様式です。

これは、
👉 「自律的学習」ではなく「強制への適応」
です。

主体性に必要な

・自分で必要性を理解する

・自分で計画を立てる

・自分で調整する

という要素が、ほぼ入りません。

 

② 「家庭学習の習慣」は本当に身につくか?

短期的には、

・宿題提出率は上がる

・表面的な学習時間は増える

でしょう。

しかし長期的には、

・強制がなくなるとやらない

・管理されないと動けない

・学習=苦役という認識が固定化

という結果になりやすいです。

👉 **習慣ではなく「条件反射」**が作られているだけです。

 

③ 叱責・居残りの心理的影響(高校生)

高校生は、年齢的に

自尊感情が揺れやすい

・教師への信頼が学習意欲に直結する

・「理不尽さ」に非常に敏感

です。

この方法は、

・学習内容より「怒られた記憶」が残る

・教師=敵、という構図を生みやすい

・努力しても追いつかない生徒ほど萎縮する

👉 結果として「考えない・目立たない」生徒を増やします。

 

④ それでも擁護できる点はあるか?

公平に言うと、限定条件付きで効果が出る場合はあります。

成り立つ条件

・課題量が「現実的」

・意味と目的が丁寧に説明されている

・叱責ではなく伴走的な声かけ

・自己管理の方法(計画の立て方)を教えている

この場合、

**主体性の「芽」**が育つ可能性はあります。

しかし、ご質問の

「膨大な量+終わらなければ厳しく叱責」

という形では、ほぼ当てはまりません。

 

⑤ 主体性を育てるなら、何が違うのか
『✕ 強制型』

・量を増やす

・罰で管理する

・全員同じ

 

『○ 主体性型』

・量は最小限、質を重視

・計画は生徒に立てさせる

・振り返りを必須にする

例:

1週間で「合計90分」家庭学習
→ いつ・何をやるかは生徒が決める

終了後に「うまくいった点・改善点」を記述

👉 これなら「家庭学習習慣」と「主体性」が両立します。

 

⑥ 教育的に最も問題な点

一番の問題は、

「主体性を育てる」という名目で
実際には「管理・統制」をしていること

です。

これは生徒にも見抜かれます。

・言っていることと、やっていることが違う

・建前だけの主体性教育

👉 信頼を失うと、主体性は育ちません。

 

⑦ 結論(端的に)

・短期的な提出率向上 → あり

・家庭学習時間の増加 → 見かけ上あり

・主体性の育成 → ほぼない

・自律的学習者の育成 → むしろ逆効果

 

 

 

 

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【質問2】

じゃあ、次は校則について聞きたい。「ツーブロック禁止や髪の長さ、女子のソックスの色や長さなど、身だしなみをとにかく細かく規定し、授業中であろうが休み時間だろうが登下校中だろうが、少しでも違反すれば厳しく叱責される。」これについてはどう思う?

 

〔回答〕

これも「主体性」との関係を考えるうえで、非常に核心を突いたテーマです。
結論から率直に述べます。

ご提示のような校則運用は、主体性を育てるどころか、長期的には阻害する可能性が高いと私は考えます。

以下、感情論ではなく、教育的観点で整理します。

 

① その校則で育つのは何か?

細かく規定し、即叱責する運用で生徒が学ぶのは、

・ルールは「考えるもの」ではなく「従うもの」

・納得できなくても従うのが正解

・見つからなければOK

・指摘されないことが最優先

です。

👉 育つのは
規範意識」ではなく「回避行動」
「主体性」ではなく「従属性」 です。

 

② 「身だしなみ指導」の本来の目的と乖離

本来、身だしなみ指導の教育的目的は

・他者に不快感を与えない

・公共の場での配慮

・場に応じた判断力

のはずです。

しかし、

・髪型の名称で一律禁止

・ソックスの色・長さまで細分化

になると、

👉 目的より「管理」が前面化します。

生徒は
「なぜそれがダメなのか」を考えなくなります。

 

③ 主体性との決定的なズレ

主体性に必要なのは、

・ルールの意味を理解する

・自分の行動を判断する

・状況に応じて調整する

しかしこの校則運用では、

・判断は教師が独占

・生徒の裁量はゼロ

・思考の余地がない

👉 「考えないこと」が最適行動になります。

これは授業で
「自分で考えよう」と言っても、整合しません。

 

④ 厳罰主義が生む副作用(現場的に)

特に高校生では、以下が顕著です。

◆教師との関係悪化

・注意=攻撃と受け取られやすい

・指導が人格否定に感じられる

◆学校への不信感

・「どうせ聞いてくれない」

・「理不尽な場所」

◆本質からの逸脱

・身だしなみばかりが話題

・学びの場としての価値が下がる

 

⑤ それでも校則が必要な理由(擁護点)

誤解がないように言えば、

校則そのものを全否定するつもりはありません。

一定の共通ルールは必要です。

特に、

・安全面(作業服・実習)

・対外的信用(学校代表行事)

・いじめ防止・トラブル防止

これらは合理的根拠がある校則です。

問題は
👉 **「細かさ」と「運用の仕方」**です。

 

⑥ 主体性を育てる校則運用の方向性
(1) 目的を言語化する

例:

「なぜツーブロックは禁止なのか」

「社会で求められる身だしなみとは」

 

(2) 判断の余地を残す

名称禁止ではなく「基準説明」

グレーゾーンは対話で確認

 

(3) 叱責ではなく「相談・修正」

即罰ではなく「どう直す?」

次にどうするかを一緒に考える

👉 校則は「思考教材」にできます。

 

⑦ 最も大きな矛盾点

一番の問題はこれです。

主体性を育てたい
でも生活指導では
「考えるな、従え」

このダブルメッセージは
生徒に強烈に伝わります。

👉 主体性教育の信頼性を壊します。

 

⑧ 結論(端的に)

・規律維持:短期的には有効

・主体性育成:長期的には逆効果

・生徒の判断力:育たない

・社会適応力:形式的にしか育たない

 

 

 

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【質問3】

最後に、「これらのような学校の方針に従えないなら辞めてくれて構わない。」という強権的な言葉は、主体性を育てる教育(というか高校の学校教育)として適切なのだろうか?

 

〔回答〕

とても重く、しかし現場では実際に耳にすることがある言葉ですね。
結論から、はっきり述べます。

「これらの方針に従えないなら辞めてくれて構わない」という強権的な言葉は、
主体性を育てる教育としても、また高校教育そのものとしても、適切とは言えません。

以下、感情論ではなく、教育制度・発達段階・学校の責務の観点から整理します。

 

① その言葉が意味するメッセージ

この発言が生徒に伝える本質的なメッセージは、

・学校は対話の場ではない

・疑問を持つことは排除の対象

・合わない人間は去れ

・従順であることが価値

です。

👉 これは「主体性」ではなく
沈黙・諦め・服従を学ばせる言葉です。

 

② 高校教育の前提と明確に矛盾する点

高校は、たしかに義務教育ではありません。
しかし同時に、

・未成年を多く預かる教育機関

・社会への移行期を支える場

・多様な背景の生徒を包摂する場所

でもあります。

その立場から見て、

「合わないなら辞めろ」

という姿勢は、
👉 教育的支援を放棄した宣言に近い。

これは
教育機関」としての責務と強く矛盾します。

 

③ 主体性の育成と“強権”は両立しない

主体性に必要な条件は、

心理的安全性

・意見を言っても排除されない安心感

・試行錯誤できる余地

しかし、

・異論=排除

・不適応=自己責任

という空気の中では、

👉 生徒は「考える前に黙る」ようになります。

これは
主体性の根を断つ環境です。

 

④ 教育的に最も危険な点

この言葉の最大の問題は、

「選択して辞めているのだから自己責任」

という構図を作ってしまうことです。

実際には、

・十分な選択肢を知らない

心理的圧力下での決断

・未成熟な判断力

という状況での「選択」です。

👉 真の自己決定ではありません。

 

⑤ 学校側の論理は理解できるか?

公平に見れば、学校側の本音として、

・統制が取れなくなる不安

・全体秩序の維持

・一部の生徒への対応負担

があるのも事実でしょう。

しかし、

👉 だからといって排除を教育方針にしてよい理由にはならない。

 

⑥ 本来あるべき言い換え

もし学校が本当に「主体性」を重視するなら、
言葉はこうあるべきです。

「なぜこの方針があるのか、一緒に考えよう」

「困っている点はどこか」

「どうすれば折り合いをつけられるか」

👉 対話を閉じない言葉である必要があります。

 

⑦ 教育的・倫理的観点からの評価

この発言は、

教育的妥当性:✕

主体性育成:✕

心理的安全性:✕

学校の公共性:✕

と評価せざるを得ません。

 

⑧ 結論(率直に)

・これは「教育」ではなく「選別」

・主体性ではなく「服従」を教える

・高校教育の理念と相容れない

・短期的な秩序は保てても、長期的な人材育成を損なう

 

あなたのこれまでの問い(過剰な宿題 → 過剰な校則 → 排除的言葉 )は、
すべて一本の線でつながっています。

「主体性を育てる」と言いながら、
実際には「管理しやすい生徒」を作っていないか?

これは、学校現場が真正面から向き合うべき問いだと思います。

 

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・・・いやもう、共感の嵐ですわ。

チャッピー君、神かよ。。。

 

 

教育によって失われた30年。そしてこれからどうするか?

私は9年前に一度教員を辞めています。
 
理由はいろいろありますが、主な理由は、「学校にはびこる妙な価値観(こんなこと)を、ここまで強権的に子ども達に押し付けることに何の意味があるのだろうか?」という事でした。
そして、公教育が頑なに変わらない絶望感も感じていました。
 
それから退職後は、非常勤講師・移動カフェ・オルタナティブスクール(デモクラティックスクール)などをやりながら、多くの教育に関するイベントや講演会などに足を運び、色々な本も読みました。
 
 アドラー心理学から始まり、下町ロケットのモデルとなった植松電機社長の植松さん、桜丘中学校の元校長である西郷先生、東大名誉教授で幼児教育の専門家である汐見先生、大分を代表する大学であるAPUの元学長の出口先生、そして麹町中学校横浜創英中学・高等学校の元校長である工藤先生。
 
色々な方々の教育に関する本を読み、動画やTV番組を見て、「こんな方々が表舞台で取り上げられるようになったのならば、きっとこれから公教育も変わる。いや、私たち教育に関わる大人達の手によって変えて行かなければならない!」
そう思い、教員としての道に戻る決意をしました。
 
そんな中でも「例え県立や市立などの公立学校でも、当事者の覚悟一つで変えられる」と特に勇気を頂いたのが工藤先生の「学校の当たり前をやめた」という本との出会いでした。
その出会いが約6年前。
 
それから今に至るまで、残念ながらまだまだ学校は変わり切れていません。
大分は特に地方都市だからなのか、昔からの根強い価値観が残り続けています。
だから諦めるのか。。。?
いや、だからこそ変えて行かなければなりません。
 
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ちょうど私が退職した9年前の2016年1月に日本政府で閣議決定された「第5期科学技術基本計画」で提唱された、「society5.0」と言われる変化の激しい時代。
あれからもう9年経っています。
その間に学校現場はどれだけ変わったでしょうか?
 
先日参加させて頂いた工藤先生の講演会の中にもあった「失われた30年」。
その言葉を裏付けるように、30年前(私が高校を卒業したぐらい)の学校の教育観や価値観と、今の学校の教育観・価値観はさほど変わっていないように感じます。
 
インターネットがほとんど普及していない時代の教育観と、AIが当たり前になっている時代の教育観が同じで良い訳がありません。
 
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文科省ガー」「教育委員会ガー」
そうやって人のせいにするのは簡単です。
お上の方々が本気で改革して来なかった憤りは私にもあります。
 
しかし、その価値観をずっと変えて来なかったのは私たち現場の教員も同じです。
 
だからといって犯人探しや悪者探しをするつもりはありません。
それをしても何も前には進みません。
 
ドラマ「御上先生」の言葉にもある「これからの教育をリビルド」し、それによってより良い社会を実現するために私たちが出来る事。
 
それは教育に関わる一人一人が「これから教育をどうしなければならないのか?どうしたいのか?」という当事者意識を持ち、目の前の課題に対して勇気を持ってしっかりと向き合い、協働し、解決して行く事では無いでしょうか?
(ここでの「教育」は、学習活動だけではなく、生徒指導・特別活動・進路指導など、学校に関わる事の全てを含んだ意味です。)
 
生徒にやれという前に、まずは私たち大人がやらなければならない。
そう強く感じる今日この頃です。
 

本当の生徒指導とは何かを考える。

生徒指導提要にも書かれていますが、学校における『生徒指導』には『3つの機能』というものがあります。
 
①自己決定の場を与える
②自己存在感を与える
③共感的な人間関係を育成する
 
 というもので、
「すべての児童生徒のそれぞれの人格のよりよき発達を目指すとともに、学校生活がすべての児童生徒にとって有意義で興味深く、充実したものになることを目指す」
ことが目的となっています。
 
そのうえで教員に求められる役割は、
「自己選択や自己決定の場や機会を与え、その過程において、教職員が適切に指導や援助を行うことによって、児童生徒を育てていくこと」
です。
 
それを学校で実現するためには、まずは学校(教員)がその校則やルールについて、なぜそうなっているのか?を合理的な根拠に基づいた理由を添えた上できちんと説明し、生徒自身がそれをどう捉え、どう考え、どう選択し行動するのかを見守り、必要に応じて指導・助言して行くという、粘り強く長期的な視点で取り組まなければなりません。
 
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また、校則の中には未だに生徒にきちんと合理的理由を説明できない校則(ルール)なんかも、まだまだ残っているのではないでしょうか?
 
例えば、
 
・横髪は耳にかからないこと
  → なぜ耳にかかってはいけないのか?
 
・後髪は襟にかからない
  → 髪が襟にかかると何かが起こる!?
 
・もみあげは耳の真ん中までの長さ
  → もみあげが耳の中央より長いと、どんな不利益が発生するのか?
 
  → なぜ??営業さんや接客業の方でも普通にしてますが・・・。
  → どこまでがツーブロック??
 
・靴下の色は白か黒
  → その他の色だと何か良くない事が起こるのか?
 
・化粧や色のついた日焼け止めは一切禁止
  → 肌のケアや健康よりも大切な事なのか?
  → 社会に出ると、逆に「化粧ぐらいしろ」と言われますが・・・
 
・スマートウオッチは禁止
  → 試験などの際は理解できるが、普段もダメなのはなぜ??
 
など、
あげればきりがありませんが、こういったルールについて、教師も生徒も保護者も社会人もみんなが納得できる明確で合理的な説明ができるのでしょうか?
 
それに加え、生徒指導が「学校のルール(校則)を守らせる」ことだけが目的となってしまってしまっている状況も多くあると感じています。
 
これでは、本来の生徒指導の目的も達成できないし、生徒指導の意義である『児童生徒自ら現在及び将来における自己実現を図っていくための自己指導能力の育成を目指す』ことにもつながりません。

 

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さらに、「校則」ではなく『生徒心得』という言葉を使っている学校も増えてきています。
どういうつもりでわざわざ『生徒心得』と言う言葉を使っているのかはわかりませんが、生徒心得』とは、あくまで生徒自身が自覚すべき『心得』でしかなく、学校が強制力や拘束力を働かせる「校則」とは違うものです。
ですが、これも多くは形骸化していて、実際は『「生徒心得」と呼び方を変えて耳障りを良くしただけの、ただの校則』となり果てているものも多くあると感じています。
 
「大人が一方的に決めたルールだけど、昔からそうだし、きっと世間はこう思ってるだろうし、後ろめたい事は何も無いし間違ってもいない!だから生徒には問答無用で強制的に従わせておけばよい!」というのなら、堂々と「校則」と書けばいい。
さすがに『やり方がセコイ』としか言えません。
 
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ソサエティ5.0と言われる社会に突入して幾年が経ち、インターネットやAIなどによって社会はものすごい速さで変化しています。
それに加えて、個性や多様性・自分らしさ・主体性・・・など、社会が求めるものは複雑さを増すばかりです。
だからこそ、私たち学校(教員)は社会で幸せに生きていける、社会で活き活きと活躍できる生徒の育成とその目的をしっかりと意識し、挑戦し続けなければなりません。
 
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『自分が持っている価値観は、果たして今の教育の実情に合っているのか?』
『変えるべきものと変えられないものを、知性を働かせてきちんと見分けられているのか?』
『そこにあるべき目的や本質を見失っていないか?』
『地域からの評判を気にするあまりに批判を恐れ、ことなかれ主義になって思考停止していないか?』
『学びの主体者は生徒であるという本質を忘れていないか?』
『学校は生徒を主体とした民主主義の場であるはずなのに、特定の声の大きい人間の独裁になっていないか?』
『学校と社会の仕組みがシームレスにつながっているか?』
 
私たちも今一度、しっかりと考える必要があるのではないでしょうか?
 
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〔生徒指導提要〕
 
 

『学校依存社会』からの脱却

先日受けた教員の研修で「現代は学校依存社会」という言葉を聞いた。

聞いた瞬間、ストンと腑に落ちた。
 
法律で見ても「子の教育についての第一義的責任」を負うのは保護者であり、学校(教員)ではありません。
 
保護者以外の地域の大人達も「今の社会を作っているのは他ならぬ自分達自身であり、子ども達はそれを映す鏡である」という自らの責任を見つめ直し、子ども達に「生きる」ことの意味を教える義務と責任があります。
 

 

もう何度も言っているが、教員は働かせ放題の奴隷ではありません。
子どもを盾に取れば何でも言う事を聞いてくれる何でも屋さんでもない。
 
しかるべき報酬を税金から頂いている以上、教員として果たすべき責任や仕事に対し、公務員としてその職責は果たさなければなりません。
 
しかし今の学校(教員)は、本来その職責で背負う必要の無い仕事や責任までも背負っている。プライベートの時間(勤務時間以外の時間)までも犠牲にして。。。

それも教員が絶対に逆らえない「子どもたちのために」という金看板を盾にして。
 

 

 
そもそも子ども達のために働きたくない教員なんて一人もいないと思うし、そう願っています。
私たち教員は子どもたちの為に日々懸命に働いています。
でも、私たちも一人の人間であり、一人の親でもあります。

 
 
学校や教員に何でもかんでも丸投げするのではなく、同じ地域に生きる同じ大人として、互いの役割と責任を理解し分担し、協力して子ども達を育てて行く事は、そんなに無理難題な難しい事でしょうか?
 
より良い教育はより良い社会を作ります。

逆に、教育をおろそかにしている国は間違いなく衰退します。

 

子ども達のために、そして自分たちの為に、より良い社会を作りませんか?

 

 

学校教育を考える⑤『教師に必要な資質とは?』

今までは、生徒指導(髪型や服装を事細かく守らせること)がきちんとできる人や、部活動などで生徒に言う事を聞かせる事ができる人(いわゆる「生徒をシメることが出来る人」)が「良い教師」とされてきました。

 

また、そしてそれを達成するための手段として、「叱る(怒る)」事や学校の決めたルールを「教師の権力の下で強制的に守らせる」といった「力」に頼ったものが主流でした。

 

 

以前は、そのようなやり方をするしかなかった時代もあったのかもしれません。

しかし時代は流れ、現在の社会では人権意識も高くなり、体罰やハラスメントなどはもってのほかであり、「子どもの権利条約」にもあるように「子ども達も一人の人間として自分の意見を表明する権利がある」といったことも叫ばれるようになりました。

 

教員の中には「時代が変わった、昔は指導もやりやすかった」「厳しく指導出来なくなった(体罰が出来なくなった)から生徒に舐められる。体罰や理不尽を我慢させることも教育」などの声もまだまだあるようです。

 

しかし、このような指導のやり方を私自身は決して受け入れることはできません。

理由は、「明らかに生徒自身の人格(人権)を無視している」こと、そして日本国憲法教育基本法などに書かれている「教育の目的」に反しているからです。

これは文科省が出している答申などを見ても明らかです。

 

 

一人一人が自由で幸せな人生を、社会と調和しながら歩んでいく。

本当の意味での「民主主義社会」を実現するためには、子どもの頃から「民主主義社会」とはどういった社会なのかに触れ、実践しながら経験を積んで行く必要があります。

 

その環境を学校で実現するためには、「学校のシステム」「教員の意識やスキル」をアップデートし、新しい仕組みや価値観を身につけて行く必要があります。

 

 

そこで今回は、そんな「これからの教師に必要な資質(スキル)」をいくつか挙げてみたいと思います。

(※あくまで個人的な意見です。)

 

 

 

 

◆『管理者』から、『支援者』へ

 

従来までの学校教育は一斉授業が中心で、学校の校則も教員(大人)が決めたルールを一方的に生徒に守らせる形が中心でした。

学校に根強く残る「大人」が「子どもを管理する」というカタチ。

 

しかしそれでは「自分の社会は自分たちでより良くしていかなければならない」「自分たちがきちんと考え行動すれば、社会をより良く変えられる」という「当事者意識」や「主体性」は育ちません。

 

この意識は「より良い民主主義社会」を実現するためにはとても大切なものですが、残念ながら私たち大人もそのような意識が持てていない(きちんと学べていない)人が大勢いると感じます。

結果、それが職場での「ハラスメント」や「ブラック労働」、自殺者や病気休職者の増加にもつながっているのではないでしょうか?

 

子ども達には、「社会に出れば理不尽な事が多くあるから」という理由でガマンを強いる事を教える(強要する)のではなく、「理不尽な事があれば、それを変えて行けるし変えて行かないといけない。そしてその権利がある」という事を教えることが大切だと感じます。

 

それを子ども達が学び実践する場が「学校」です。

従来のように子ども達を「管理・支配」するのではなく、生徒が自らが学び成長しようとする力をいかに「支援・サポート」して行くのか?

生徒が失敗した際に「叱る」のではなく、その失敗をどうリカバリーして経験として次に活かすのか?

足りない部分をどう上手くフォローアップしていくのか?

 

その方法を共に考えアドバイスし、時には一緒に実践し学んでいく。

教師はそういう「支援者」「伴走者」としての方向へシフトして行く必要があるのだと思います。

 

 

 

◆『ファシリテータ』としてのスキル

 

一人一人が自由により良く生きようとすると、必ず他人と衝突やトラブルが起きます。

これをお互いが納得した形で解決するためには、お互いがきちんと「対等な立場で対話する」事が必要です。

 

しかし日本人はこういう「対話」が苦手です。

お互いの「意見」を交わしているだけなのに、いつしか人格攻撃に発展してしまったり、自分の人格を否定されたような気持になってしまったりします。

それは個人の対話の能力がもともと低いのではなく、「対話の技術」を身につけていない(知らない)だけなのだと思います。

だとすれば解決方法は簡単で、一人一人が「対話の技術」を身につけることで解決するはずです。

 

学校で子ども達に「対話の技術」を教えるためには、教師もまた「対話の技術」を身につけなければなりません。(知らない事は教えられないので)

 

会議の円滑な進行を担うこの「ファシリテータ」の技術は、職員会議やクラス会議など、学校の様々な対話の場で役に立つ非常に重要なスキルの一つであると言えます。

 

(補足)

ファシリテーターとは、ファシリテーションといった能力を活用しながら、会議などの場で参加者に発言を促したり、話の流れをまとめたりする人のことで、下記のような役割を担います。

 ・ 会議や研修などの進行役

 ・ 参加者に発言を促すサポート役

 ・ 会議や研修の目的であるゴールに参加者を確実に導く誘導役

 

 

 

 

◆『サイエンス』と『エビデンス

◆『〇〇らしさ』という固定概念からの脱却

 

学校にはまだまだ「精神論」や「根性論」などによって、その根拠が無い謎ルールが多く残っています。

 

また、校則によく見られる「中学生らしさ」「高校生らしさ」など、「誰の主観で決めてるねん!」とツッコみたくなるものも根強く残っています。

(余談ですが、ビックリ校則の中の「ポニーテールは男子がうなじに欲情するから禁止」などもその最たるもの・・・。男子生徒じゃなくて男性教員の主観では?・・・と疑いたくもなる。)

 

校則でもなんでもそうですが、生徒に聞かれた時にキチンとその理由や根拠を説明できないものは、きちんと説明できるものへと変えて行くべきです。

 

それは、教員の仕事についても同じです。

勤務時間内の業務については「職務命令」ということで強制力がありますが、勤務時間外の活動については業務として強制することはできません。

(それをしたら労働基準法違反です。)

しかし「生徒の為に」という殺し文句で生徒を人質に取り、「やりがいを搾取する」という構図が未だなお残っています。

 

「なぜ勤務時間外の業務を実質的に強制しているのか?なぜそれが許されているのか?」その根拠を明確にせず、堂々と労働基準法違反になるような働かせ方をしている学校のシステムもまた早急に改善されるべきです。

(「給料4%上乗せで働かせ放題」の給特法がその最たるもの)

 

 

生徒に関わる校則や教員の働かせ方など、きちんとその「根拠」を示し、学校に関わる全員が納得するようなルールやシステムに変えて行かなければなりません。

 

 

 

 

◆『カウンセラー(心理学)』

 (専門性がとても高いので、可能なら・・・)

 

生徒の行動を、ただ「良い」「悪い」だけで判断するのではなく、その行動の裏には何があるのか?それを理解することはかなり重要な事です。

 

これが出来れば、問題行動などが起こった時だけ場当たり的な対処をするのではなく、それが起こる前に対処することが出来ます。

困りごとを抱えている生徒の早期発見にも繋がります。

 

ただ、とても専門性が高いのですべての教員が身につけることは無理かもしれませんが、せめてそれぞれの学校に心理の専門家(カウンセラーなど)が常駐するぐらいにはなっても良いのではないかと思います。(予算の問題もあるのでしょうけれど・・・)

 

 

 

 

 

◆『授業力』よりも、まずは『人間力

 

教師として「授業力」ももちろん大切だとは思いますが、私はそれ以前に「人間力」が大切だと思っています。

 

なぜなら、「信頼」していない人の言葉は相手には届かないからです。

どんな良い授業をしたとしても、生徒と信頼関係が築けていなければ、その言葉は届きません。

 

ましてや、これからは「主体的な学び」「協働的な学び」「個別最適化な学び」などがより推進されていくので、教師が一方的に伝える技術よりも、共に考え歩んでいくための「寄り添う技術」の方が、これからはより必要になって来ると思います。

 

 

 

 

◆『教師自身が幸せな人生を歩む』こと

 

生徒にどんな良い事を伝えようとしても、

 

自分自身が不幸だったら、その言葉には説得力がありません。

 

自分自身が様々な経験をし、

 

何気ない日常生活の中で自分自身が感じている「幸せ」。

 

そんな人生を歩むには、今何をすればよいのか?

 

どんなことを学べばよいのか?

 

それを伝えられる人間になる。

 

それを伝えられる人生を歩む。

 

それが「教師」にとって最も大切なスキルなのかもしれません。

 

 

学校教育を考える④『これからの学校の在り方を考える』

なんだかんだ教育や学校について色々と書いてますが、

私も学校教育に関わる一人の教員であり、

決して「学校はいらない」とか「学校はくだらない」とか思っている訳ではありません。

 

 

むしろ、「学校」「公教育」はあった方が良いに決まっています。

 

 

なので今回は、

「じゃあアナタはどうしたいの?」

「アナタはどんな学校が理想なの?」

って事を書いて行こうと思います。

 

 

 

 

 

◆『日本財団の18歳意識調査』より

 

これはとても有名な調査結果なので見た人も多いのではないでしょうか?

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日本財団「18歳意識調査」第20回 テーマ:「国や社会に対する意識」(9カ国調査) | 日本財団

 

「自分を大人だと思う」や「自分で社会や国を変えられると思う」など、すべての項目が9か国中最低です。

 

これを証明するかのように言われているのが「若者の投票率が低い」という言葉です。

ですがこの言葉だけ聞くと、あたかも「投票に行かない若者が悪い」ような捉えられ方をすることがありますが、決してそうではないと思います。

 

自分に自信を持てず、世の中の事を「自分事」として捉えられないような若者を多く育てて来たのは、間違いなく我々大人であり「学校」という場所です。

 

それを差し置いて「若者が悪い」などどいうのはあまりに身勝手な理論ではないでしょうか?

それに、この意識調査は「18歳」となっていますが、実は私たち大人にこそ当てはまるものなのだと感じています。

 

このような意識を変えて行かなければ、社会はより良く変わるはずがありません。

学校や教育の在り方を変えるためには、この調査結果を「他人事」ではなく「自分事」と捉え、まず私たち大人が意識を変えて行くという事が大前提です。

 

 

 

 

 

◆『教育の過剰サービス産業化』をやめる。

 

正直、私は今の学校は「教育の過剰サービス産業」だと感じています。

 

例えば、

『勤務時間外に部活動をするのは当たり前』

『生徒の為に自己犠牲できる教員こそが素晴らしい』

『服装や頭髪が乱れるのは学校のせい』

『子どもが勉強しないのは学校のせい』

『子どもの成績が悪いのは学校のせい』

『進学・就職試験に受からないのは学校のせい』

『親の言う事を聞かないのは学校のせい』

『家で宿題をしないのは学校のせい』

『外で悪さをするのは学校のせい』

『家で態度が悪いのは学校のせい』

 

など、挙げればきりがありません。

 

 

こうなってしまっている原因の一つが「過剰に教育サービスを提供してきた学校の在り方」だと思います。

 

「お客様は神様です」と言わんばかりに地域や保護者からのクレームを恐れ、何でも言う事を聞く。

「子ども達のためだから」という想いで自分を犠牲にし、良かれと思って全てを解決する。

 

その結果、『学校に言えば何でもしてくれる』『「先生」なんだから、子どもの事は自分を犠牲にしてでも全部引き受けて当たり前』などという風潮が根付いてしまう。

そこからさらに、『子どもについてのことは全部学校が請け負ってくれるから、学校に通報して全部解決してもらうのが当たり前』『もし解決できないなら、それは全部学校が悪い』という誤った価値観を身につけることになる

 

 

学校には「学びのセーフティーネット」としての機能は必要です。

学校内での事については当然責任があります。

しかしだからといって、

『子ども達の全てを背負う』場所ではありません。

 

 

この過剰なサービス産業を続けて行けば、生徒の主体性は失われ、保護者や地域の大人が子どものことを学校任せにし、「他人事」としてしか考えなくなります。

そして最終的には、子どもも大人も「自分の人生がうまくいかないのは、学校がちゃんとしてくれなかったからだ」と、学校や他人に責任をなすりつけるようになります。

 

このような悪循環を止めるには、「学校が負うべき責任」「保護者が負うべき責任」「地域の大人が負うべき責任」をしっかりと分離して、その課題や問題が「学校が解決すべきものなのか?」「保護者が解決すべきものなのか?」「地域の大人が解決すべきものなのか?」それとも「共に協力して解決すべきものなのか?」をしっかりと見極め、今すぐ『教育の過剰サービス産業化』をやめる必要があると思います。

 

 

 

 

 

※ちょっと書きすぎて長くなってるので、

これ以降はなるべく簡単にいきます!(汗)

 

 

 

 

◆教師も生徒も『自由(権利)』と『責任』を意識する。

◆ちゃんと『主権者教育』をする。

◆『独裁国家から民主主義国家へ』

 

今の学校現場では、教師も生徒も「責任」だけが与えられ、「権利」については多くは与えられていません。(というか教えられていない。教えると都合悪いのか??)

 

「責任」だけを与えられ「権利(自由)」が無いのはとても不条理です。

モチベーションも上がりませんし、『どうせ何を言ってもムダ』というあきらめの空気感しか生まれません。

 

 

教員には、学校運営や教育目標、それに伴う生徒への指導の在り方などを話し合い意見を伝える場が必要です。

これが無いと、情熱を持っている真面目な教員ほど息苦しくなり、やがてやりがいを失い心を病む、もしくは希望を失い現場から去ってしまいます。

「校長独裁」の学校現場では、より良い教育のカタチは実現できません。

 

 

生徒もまた、自分たちが感じている息苦しさや理不尽さ、それを変えたいと思う気持ちを、いつでも伝える場・話し合える場が必要です。

民主的な学校の学びの主権者は「生徒」であり、自分の考えを発信し変えて行ける「権利」があるという事も併せて教える必要があります。(主権者教育)

そうする事によって、生徒は「自分も社会の一員である」「自分たちで社会をより良く変えて行ける」という意識を育む事にも繋がります。

 

 

『人間は自由に生きて良い(権利)』

『社会と調和して生きる(責任)』

 

これをしっかりと意識したいものです。

 

 

 

 

◆『競争原理』から『協力原理』へ

◆目に見えない数字を大切に『脱・結果評価至上主義』

 

今の学校には多くの「競争」があります。

「成績・順位」

「部活の試合結果」

「受験(進学・就職)」

「体育祭の順位」

「スポーツテストの順位」

 

など、

常に何らかの「評価」「順位」「結果」

がつきまといます。

 

もちろん、

「成績が良い」

「順位が上」

「結果が良い」

という生徒が、

「できる生徒」であり「良い生徒」

という評価を受けます。

 

という事は、逆であれば

「できないダメな生徒」であり「悪い生徒(問題児)」

となります。

 

 

しかし、これはあくまで人間全体の「一部の結果」に過ぎないはず。

 

 

ですが仕組み上、学校は生徒を「数字で評価」しなければならず、

数字で表せないような事が得意だとしても「良い生徒」と評価されません。

(これは教員が悪いのではなく、システムの問題だと思います。)

 

だからこそ、数値化できないような人間力(いわゆる非認知能力)にも、きちんと目を向けて行く必要があると言われているのだと思います。

 

 

また、評価や結果にとらわれ過ぎることで、

「お互いの足の引っ張り合う(エスカレートするとイジメにもつながる)」

「成績を上げなければいけないという追い詰められた思いが、カンニングなどの不正行為につながる」

「ブラック労働」

体罰や暴言などの行き過ぎた指導」

「評価を気にするあまりの事なかれ主義」

「出来ない生徒を排除しようとする」

など、多くの問題を発生させる原因にもなります。

 

 

『多様性』や『個性』を尊重し、そこに住む全員がwin-winな関係性を築きつつ豊かな社会を実現するためには、人間を「数字の評価」や「結果」をもとにした競い合い「競争原理」に基づいた社会から、一人一人が違うその個性や能力を適した場所でより良く発揮していける「協力原理」に基づいた社会にシフトして行く事が必要だと強く感じます。

 

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余談ですが・・・

教員なら知っていると思いますが、来年度から成績の評価の仕方がガラリと変わります。その中身は「トンデモない労力の割にはきちんと評価できない」ような内容で、「説明責任を果たすための評価方法」でしかないものに感じます。

なぜここまで「数値による評価」にこだわり続けるのか、全く理解できません。

 

生徒や教員に課せられている「評価」の在り方を、本気で見直していく必要があると強く感じます。

(そのためには、学力重視の入試や就職試験の在り方なども同時に変えて行く必要があるのですが・・・なかなか難しいのかなぁ。。。)

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◆『教師も一人の人間である』

◆『働き方改革』の本当の意味

 

言わずもかな、

「教師も人間」です。

「教師も労働基準法にのっとって働く、一人の労働者」です。

「公立の教師は公務員なので『全体の奉仕者』ではありますが、『奴隷』ではありません。」

 

 

今、学校では学力以外にも「主体性」「多様な他者と協働する力」「社会的・職業的自立に向けて必要な基盤となる資質・能力」などと言った、いわゆる「人間力」とも言えるような力を育んで行かなければなりません。

(一応、そういう事になってます 汗)

 

それを学校で教えるのは誰か?

もちろん「教師」です。

 

ということは、

その「教師」が、

 

「主体性とは何か?」

「他者と協働するとはどういうことか?」

「多様性とは何か?」

「個性を尊重するとはどういうことか?」

自己実現するためには何が必要なのか?」

「幸せな人生を送るために必要な事は何か?」

 

などの事を、

教師自らが実践し、それを体現し理解しなければ、子ども達教えることは出来ません。

単純に、知らない事は教えられないからです。

 

 

 

しかし今の教師には、このような事を自らの生活の中で実践し経験するための時間も余裕もありません。

「ブラック労働」と言われるような過酷な労働環境で、余裕もってしっかりと子ども達と向き合うことが出来るでしょうか?

幸せを実感できないような労働環境や人生で、子ども達に何を伝えられるのでしょうか?

 

 

教師の「働き方改革」の核心は、このような課題を解決するためのものであり、決して「休みを取ればいい」とか「時間外労働を減らせばよい」というだけのものではありません。

教師という一人の人間(大人)は、「心身ともに健康で、人間的魅力に溢れ、大人として社会で生きて行く事はこんなに素晴らしいし幸せな事なのだという事を、身をもって体現できる人材」でなければなりません。

それを実現するためには、自己研鑽を積んだり、学校以外での多様な価値観を知る機会を得るための「時間」や「余暇」が絶対に必要です。

 

『働き方を変える』ことで一人一人の教師が人間的により良く変わる。

結果、学校も子ども達もより良く変わる。

だからこそ「働き方改革が必要」なのです。

 

 

教師が魅力に溢れた一人の「自立した人間(大人)」であることで、

その想いや言葉をしっかりと子ども達に届けることが出来ます。