学校教育を考える④『これからの学校の在り方を考える』

なんだかんだ教育や学校について色々と書いてますが、

私も学校教育に関わる一人の教員であり、

決して「学校はいらない」とか「学校はくだらない」とか思っている訳ではありません。

 

 

むしろ、「学校」「公教育」はあった方が良いに決まっています。

 

 

なので今回は、

「じゃあアナタはどうしたいの?」

「アナタはどんな学校が理想なの?」

って事を書いて行こうと思います。

 

 

 

 

 

◆『日本財団の18歳意識調査』より

 

これはとても有名な調査結果なので見た人も多いのではないでしょうか?

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日本財団「18歳意識調査」第20回 テーマ:「国や社会に対する意識」(9カ国調査) | 日本財団

 

「自分を大人だと思う」や「自分で社会や国を変えられると思う」など、すべての項目が9か国中最低です。

 

これを証明するかのように言われているのが「若者の投票率が低い」という言葉です。

ですがこの言葉だけ聞くと、あたかも「投票に行かない若者が悪い」ような捉えられ方をすることがありますが、決してそうではないと思います。

 

自分に自信を持てず、世の中の事を「自分事」として捉えられないような若者を多く育てて来たのは、間違いなく我々大人であり「学校」という場所です。

 

それを差し置いて「若者が悪い」などどいうのはあまりに身勝手な理論ではないでしょうか?

それに、この意識調査は「18歳」となっていますが、実は私たち大人にこそ当てはまるものなのだと感じています。

 

このような意識を変えて行かなければ、社会はより良く変わるはずがありません。

学校や教育の在り方を変えるためには、この調査結果を「他人事」ではなく「自分事」と捉え、まず私たち大人が意識を変えて行くという事が大前提です。

 

 

 

 

 

◆『教育の過剰サービス産業化』をやめる。

 

正直、私は今の学校は「教育の過剰サービス産業」だと感じています。

 

例えば、

『勤務時間外に部活動をするのは当たり前』

『生徒の為に自己犠牲できる教員こそが素晴らしい』

『服装や頭髪が乱れるのは学校のせい』

『子どもが勉強しないのは学校のせい』

『子どもの成績が悪いのは学校のせい』

『進学・就職試験に受からないのは学校のせい』

『親の言う事を聞かないのは学校のせい』

『家で宿題をしないのは学校のせい』

『外で悪さをするのは学校のせい』

『家で態度が悪いのは学校のせい』

 

など、挙げればきりがありません。

 

 

こうなってしまっている原因の一つが「過剰に教育サービスを提供してきた学校の在り方」だと思います。

 

「お客様は神様です」と言わんばかりに地域や保護者からのクレームを恐れ、何でも言う事を聞く。

「子ども達のためだから」という想いで自分を犠牲にし、良かれと思って全てを解決する。

 

その結果、『学校に言えば何でもしてくれる』『「先生」なんだから、子どもの事は自分を犠牲にしてでも全部引き受けて当たり前』などという風潮が根付いてしまう。

そこからさらに、『子どもについてのことは全部学校が請け負ってくれるから、学校に通報して全部解決してもらうのが当たり前』『もし解決できないなら、それは全部学校が悪い』という誤った価値観を身につけることになる

 

 

学校には「学びのセーフティーネット」としての機能は必要です。

学校内での事については当然責任があります。

しかしだからといって、

『子ども達の全てを背負う』場所ではありません。

 

 

この過剰なサービス産業を続けて行けば、生徒の主体性は失われ、保護者や地域の大人が子どものことを学校任せにし、「他人事」としてしか考えなくなります。

そして最終的には、子どもも大人も「自分の人生がうまくいかないのは、学校がちゃんとしてくれなかったからだ」と、学校や他人に責任をなすりつけるようになります。

 

このような悪循環を止めるには、「学校が負うべき責任」「保護者が負うべき責任」「地域の大人が負うべき責任」をしっかりと分離して、その課題や問題が「学校が解決すべきものなのか?」「保護者が解決すべきものなのか?」「地域の大人が解決すべきものなのか?」それとも「共に協力して解決すべきものなのか?」をしっかりと見極め、今すぐ『教育の過剰サービス産業化』をやめる必要があると思います。

 

 

 

 

 

※ちょっと書きすぎて長くなってるので、

これ以降はなるべく簡単にいきます!(汗)

 

 

 

 

◆教師も生徒も『自由(権利)』と『責任』を意識する。

◆ちゃんと『主権者教育』をする。

◆『独裁国家から民主主義国家へ』

 

今の学校現場では、教師も生徒も「責任」だけが与えられ、「権利」については多くは与えられていません。(というか教えられていない。教えると都合悪いのか??)

 

「責任」だけを与えられ「権利(自由)」が無いのはとても不条理です。

モチベーションも上がりませんし、『どうせ何を言ってもムダ』というあきらめの空気感しか生まれません。

 

 

教員には、学校運営や教育目標、それに伴う生徒への指導の在り方などを話し合い意見を伝える場が必要です。

これが無いと、情熱を持っている真面目な教員ほど息苦しくなり、やがてやりがいを失い心を病む、もしくは希望を失い現場から去ってしまいます。

「校長独裁」の学校現場では、より良い教育のカタチは実現できません。

 

 

生徒もまた、自分たちが感じている息苦しさや理不尽さ、それを変えたいと思う気持ちを、いつでも伝える場・話し合える場が必要です。

民主的な学校の学びの主権者は「生徒」であり、自分の考えを発信し変えて行ける「権利」があるという事も併せて教える必要があります。(主権者教育)

そうする事によって、生徒は「自分も社会の一員である」「自分たちで社会をより良く変えて行ける」という意識を育む事にも繋がります。

 

 

『人間は自由に生きて良い(権利)』

『社会と調和して生きる(責任)』

 

これをしっかりと意識したいものです。

 

 

 

 

◆『競争原理』から『協力原理』へ

◆目に見えない数字を大切に『脱・結果評価至上主義』

 

今の学校には多くの「競争」があります。

「成績・順位」

「部活の試合結果」

「受験(進学・就職)」

「体育祭の順位」

「スポーツテストの順位」

 

など、

常に何らかの「評価」「順位」「結果」

がつきまといます。

 

もちろん、

「成績が良い」

「順位が上」

「結果が良い」

という生徒が、

「できる生徒」であり「良い生徒」

という評価を受けます。

 

という事は、逆であれば

「できないダメな生徒」であり「悪い生徒(問題児)」

となります。

 

 

しかし、これはあくまで人間全体の「一部の結果」に過ぎないはず。

 

 

ですが仕組み上、学校は生徒を「数字で評価」しなければならず、

数字で表せないような事が得意だとしても「良い生徒」と評価されません。

(これは教員が悪いのではなく、システムの問題だと思います。)

 

だからこそ、数値化できないような人間力(いわゆる非認知能力)にも、きちんと目を向けて行く必要があると言われているのだと思います。

 

 

また、評価や結果にとらわれ過ぎることで、

「お互いの足の引っ張り合う(エスカレートするとイジメにもつながる)」

「成績を上げなければいけないという追い詰められた思いが、カンニングなどの不正行為につながる」

「ブラック労働」

体罰や暴言などの行き過ぎた指導」

「評価を気にするあまりの事なかれ主義」

「出来ない生徒を排除しようとする」

など、多くの問題を発生させる原因にもなります。

 

 

『多様性』や『個性』を尊重し、そこに住む全員がwin-winな関係性を築きつつ豊かな社会を実現するためには、人間を「数字の評価」や「結果」をもとにした競い合い「競争原理」に基づいた社会から、一人一人が違うその個性や能力を適した場所でより良く発揮していける「協力原理」に基づいた社会にシフトして行く事が必要だと強く感じます。

 

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余談ですが・・・

教員なら知っていると思いますが、来年度から成績の評価の仕方がガラリと変わります。その中身は「トンデモない労力の割にはきちんと評価できない」ような内容で、「説明責任を果たすための評価方法」でしかないものに感じます。

なぜここまで「数値による評価」にこだわり続けるのか、全く理解できません。

 

生徒や教員に課せられている「評価」の在り方を、本気で見直していく必要があると強く感じます。

(そのためには、学力重視の入試や就職試験の在り方なども同時に変えて行く必要があるのですが・・・なかなか難しいのかなぁ。。。)

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◆『教師も一人の人間である』

◆『働き方改革』の本当の意味

 

言わずもかな、

「教師も人間」です。

「教師も労働基準法にのっとって働く、一人の労働者」です。

「公立の教師は公務員なので『全体の奉仕者』ではありますが、『奴隷』ではありません。」

 

 

今、学校では学力以外にも「主体性」「多様な他者と協働する力」「社会的・職業的自立に向けて必要な基盤となる資質・能力」などと言った、いわゆる「人間力」とも言えるような力を育んで行かなければなりません。

(一応、そういう事になってます 汗)

 

それを学校で教えるのは誰か?

もちろん「教師」です。

 

ということは、

その「教師」が、

 

「主体性とは何か?」

「他者と協働するとはどういうことか?」

「多様性とは何か?」

「個性を尊重するとはどういうことか?」

自己実現するためには何が必要なのか?」

「幸せな人生を送るために必要な事は何か?」

 

などの事を、

教師自らが実践し、それを体現し理解しなければ、子ども達教えることは出来ません。

単純に、知らない事は教えられないからです。

 

 

 

しかし今の教師には、このような事を自らの生活の中で実践し経験するための時間も余裕もありません。

「ブラック労働」と言われるような過酷な労働環境で、余裕もってしっかりと子ども達と向き合うことが出来るでしょうか?

幸せを実感できないような労働環境や人生で、子ども達に何を伝えられるのでしょうか?

 

 

教師の「働き方改革」の核心は、このような課題を解決するためのものであり、決して「休みを取ればいい」とか「時間外労働を減らせばよい」というだけのものではありません。

教師という一人の人間(大人)は、「心身ともに健康で、人間的魅力に溢れ、大人として社会で生きて行く事はこんなに素晴らしいし幸せな事なのだという事を、身をもって体現できる人材」でなければなりません。

それを実現するためには、自己研鑽を積んだり、学校以外での多様な価値観を知る機会を得るための「時間」や「余暇」が絶対に必要です。

 

『働き方を変える』ことで一人一人の教師が人間的により良く変わる。

結果、学校も子ども達もより良く変わる。

だからこそ「働き方改革が必要」なのです。

 

 

教師が魅力に溢れた一人の「自立した人間(大人)」であることで、

その想いや言葉をしっかりと子ども達に届けることが出来ます。