学校教育を考える③『学校の多くは独裁国家』

生徒に大きく関係する、制服や頭髪などの校則の問題。

教員に大きく関係する、部活動を始めとしたブラック労働の問題。

 

これらの問題は別物ではあるけれど、その根底はつながっている気がする。

 

 

一言で言えば、

『多くの学校は、民主主義ではなく独裁国家

だからだと思う。

 

 

「そんなことは無い!」

と言いたい教員も多くいると思うが、

残念ながら一般的な多くの学校が独裁国家なのは間違いない事実。

 

 

なぜなら、

学校を一つの国家として見たとき、

一番権利を持っている「主権者」が誰なのかを見ればわかります。

 

もし独裁国家なら、その国の首長が主権を持ち、

もし民主主義国家なら、国民がその主権を持っているはず。

 

 

 

さて、今の学校での主権者は誰か?

ズバリ、学校の主権者は「校長」です。

 

 

 

例えば大分県では、平成24年に以下のような通知を各学校に出しています。

(以下、大分県教委が各学校に通知した文書の一部)

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2 職員会議の役割の明確化について

職員会議は校長の補助機関として、学校運営に関する校長の方針や様々な教育課題への
対応方策についての共通理解を深めるとともに、生徒の状況等について担当する学年・学級・教科を越えて情報交換を行うなど、教職員間の意思疎通や情報の共有を図る上で重要な意義を有するものである。
しかしながら、一部において、校長と教職員の意見や考え方の相違により、職員会議の
本来の機能が発揮されない場合や、法令の規定に反し、職員会議があたかも意思決定権を有するような運営が見受けられる。そこで今回、校長の職務の円滑な執行に資するため、職員会議が法令の規定に沿ったものとなるようその役割を明確化したものである。

 


(1) 職員会議において、本来、校長の責任で決定する事項を不当に制約するような運
営や議決により校長の意思決定権を拘束するといった運営は認められないこと。
(2) 校長が校務に関する決定等を行うに当たって、職員会議において所属職員等の意
見を聞くことが必要な場合においても、「挙手」や「多数決」等の方法を用いて職
員の意向をはかることは運営委員会の機能を否定することになりかねないばかりで
なく、校長が自らの責任で決すべき意思決定に少なからず影響を与え、同会議が実
質的な議決機関となりかねない。このため職員会議において「挙手」、「採決」等の
方法を用いて職員の意向を確認するような運営は不適切であり、行わないこと。
(3) 職員会議で取り扱う報告、意見聴取及び連絡に関する事項は、運営委員会を経た
上で、事前に副校長又は教頭に提出したものであること。ただし、校長が運営委員会を経る必要がないと認めたものについては、この限りでない。


(以下略)


全文はコチラ

⇩⇩⇩⇩⇩⇩

https://www.pref.oita.jp/uploaded/attachment/2003492.pdf

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この文書にあるように、

『職員会議において「挙手」、「採決」等の方法を用いて職員の意向を確認するような運営は不適切であり、行わないこと。

とハッキリと書かれています。

また、実質的な決定機関である「運営委員会」にも、特定の教員しか参加できません。

 

つまり、「一般の教員は職員会議で意見を言う資格も無いし、学校の在り方をとやかく言う資格も無い。」という事に他なりません。

 

 

 

 

 

では今度は生徒にとってはどうなのかを考えてみます。

もし学校が民主主義国家なのであれば、国民に相当するのは「生徒」であり、「生徒が主権者」という事になるはず。

 

ですが実際は、

「校則などのルールは学校側が一方的に決定したことを生徒に押し付けているだけ」であって、そこに生徒の意志・意見はほぼありません。

 

(少し前、県教委から「校則について生徒の意見を聞きなさい」という通達があり、生徒にアンケートを取ったのですが、アンケートを取る前に全校集会で「余計な事は書くなよ。良く考えて書け、わかってるな?」と、暗に生徒に圧力をかけたうえで実施しており、実感としては「帳面消しの為に、ただやっただけ」としか思えませんでした。泣泣泣)

 

また、各学校に「生徒会」もありますが、そこに生徒の意志決定の仕組みは無く、実質的には「教員の下請け機関」のようになってしまっているように感じます。

 

 

 

 

 

「じゃあ完全に一回壊さないと無理なんじゃないの?」

と思えるかもしれませんが、

カタチは校長主権の独裁国家でも、

運営の仕方によっては十分「民主主義」にもなりえると思います。

 

 

例えば、

『教員は、生徒や保護者と健全なコミュニケーションを通して意見交換し、その意見を学校に取り入れようと動いている。』

 +

『校長が日常的に教員と対等に意見交換し、その意思や価値観を尊重し、学校運営方針に取り入れるべくマネジメントしている。』

という取り組みがなされていたりすれば、可能性はあると思います。

(まぁほぼそんな話は聞いたことは無いですが。汗汗汗)

 

 

 

 

 

 

 

本来、学校は「民主主義」を学ばなければならないはずの場所。

なぜなら、日本は「民主主義国家」だから。(資本主義も入ってるけど。)

そんな将来の日本を担う子ども達が学ぶ場が「独裁国家」で良いとは思えません。

 

 

学校が「生徒全員が安心してより良く学べる場」であり、「社会と調和して自立して生きていける大人になるために学ぶ場」であるためには、そのルールやあり方が特定の人間だけの意志や価値観だけで決定されるのではなく、主権者である「生徒」、そしてそれを支援する教員や保護者など、学校に関わる全ての大人が当事者として、対等で丁寧な対話を通して決められて行く必要があると思います。

 

 

 

対話には時間も労力もかかります。

独裁の方が、話も早いし管理する側にとって都合が良いでしょう。

 

でもそれでは「自立」した生徒は育ちません。

「自分の幸せ」と「社会の幸せ」に責任を持てる生徒は育ちません。

 

 

失敗も成功も貴重な経験です。

学校が少しでも早くこの独裁国家から脱却できるように、私自身もできる事を最大限の勇気を持って取り組んで行きたいと強く思います。

 

 

 

学校教育を考える②『部活動』

今回のテーマは『部活動』。

校則と並んで昨今の話題に上がるテーマの一つ。

 

 

なぜ話題に上がるのかと言えば、「部活動」と「ブラック労働」は明らかに繋がっているから。

 

 

ちなみに、教員が部活動で時間外(放課後や休日)勤務した場合、どれぐらいの報酬(残業代)が貰えるのかといえば、

 

・平日の放課後の残業代はゼロ。

・土日祝日は「特殊勤務手当」として以下の額。

  2時間以上3時間未満 1,800円

  3時間以上4時間未満 2,700円

  4時間以上 3,600円

  なお、土日祝日に部活動で勤務する場合の交通費支給(高速代含む)はゼロ。

※ちなみに私の所属する自治体では、部活動や補習・生徒指導などによって勤務時間を超過することも考えられるという業務の特殊性を鑑みて「調整額」という名目で毎月4%一律で給与が増額されています。(給特法とも言うのかな?)

 

例えば部活動指導で、

・基本給 300,000円

の教員が、

・平日20日間、時間外勤務16:40~19:40

・土日祝日8日間、時間外勤務9:00~12:00

時間外勤務したとすると、

部活動指導で毎月貰える金額は実質、

土日祝日の ¥2,700×8日 = ¥21,600

調整額 ¥300,000×0.04= ¥12,000

¥33,600円(土日の交通費は自腹)

となります。

 

これを時給換算すると・・・

33600÷(3時間×20日+3時間×8日)= ¥400

時給¥400円で時間外勤務(残業)している事になります。

(自腹の交通費を含めると、遠方から来ている先生は完全にマイナスだそうです。)

 

これが『教員定額働かせ放題!』と言われている所以です。

 

 

 

 

でも、

これはさすがにイカんじゃないか!!

という事で平成31年中央教育審議会より答申が出されました。

 

 

以下、平成31年中央教育審議会答申より

⇩⇩⇩⇩⇩⇩

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新しい時代の教育に向けた持続可能な学校指導・運営体制の構築のための学校における働き方
改革に関する総合的な方策について(答申)【概要】 (平成31年1月25日中央教育審議会)


第1章 学校における働き方改革の目的
〇 これまでの我が国の学校教育の蓄積はSociety 5.0においても有効であり、浮足立つことなく充実を図る必要。これまで高い成果を挙げてきた我が国の学校教育を維持・向上させ、持続可能なものとするには、学校における働き方改革が急務。
〇 ❛子供のためであればどんな長時間勤務も良しとする❜という働き方の中で、教師が疲弊していくのであれば、それは❛子供のため❜にはならない。
学校における働き方改革の目的は、教師のこれまでの働き方を見直し、自らの授業を磨くとともに日々の生活の質や教職人生を豊かにすることで、自らの人間性や創造性を高め、子供たちに対して効果的な教育活動を行うことができるようになること。
〇 志ある教師の過労死等の事態は決してあってはならないものであり、そのためにも、学校における働き方改革の実現が必要。

(以下略)

全文はコチラ

⇩⇩⇩⇩⇩⇩

https://www.mext.go.jp/component/b_menu/shingi/toushin/__icsFiles/afieldfile/2019/03/08/1412993_4_1.pdf

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が・・・・

この答申から3年が経ち、今はもう令和4年。

 

 

 

 

何も変わってねぇ!!!!

 

 

 

 

そこにさらなる追い打ちをかけるように、

メディアで報じられるのは、

『教員不足』

『志願者倍率が下がり、教員の資質が低下』

など、

あたかも現職教員を批判したり、教員や教員を志す人間が居ない事だけが問題かのような記事ばかりで、答申から3年経っても全く変わらない学校現場の労働環境やシステムを問題視する記事がほとんど出て来ない現実。

 

 

 

正直、この部活動の問題をどんな方法で解決するのがより良いのかは私も模索中ですが、例えば、

・業務として学校から完全に切り離し、外部委託。(学校の施設は使ってOK)

・部活動したい教員は時間外に「副業」という形で関わる。

・「調整額」や「特殊勤務手当」という誤魔化しを廃止し、正規の残業代を支給する。

・大会は学校名でしか出場できないので、高体連などの協力も必要。

などが考えられますが、もっといい案が他にあるかもしれません。

 

とにかく、

早急に何とかしないとかなりヤバい状態だと強く感じています。

 

 

 

ん?

『嫌なら断ればいいじゃん。』

ですって?

 

 

おっしゃる通り。

でもね、

断ろうとすると、

『あなたが引き受けてくれないと、子ども達が活動できないんです!』

って、

子どもを人質に取って脅されるんです。

 

場合によっては、

「アナタそれでも教員ですか?」

ってダメ教員のレッテルを貼られることもあるんだそうです。

 

 

 

教員も人間です。

教員も一人の労働者です。

教員は公務員なので「全体の奉仕者」ではありますが「奴隷」ではありません。

それとも、スーパー〇イヤ人か何かと勘違いしてます?

 

 

 

これから体や心を壊した病休者がますます増え、

志願者も減り、

それでも自治体は断固として教育にお金を使わず、

結果、教員は増えず、

年度末には教員が居ないと騒ぎ、

結局見つからずに現場の教員の負担がますます増え・・・

(最初に戻って負の無限ループ)

 

このままだと、子どもたちの為に働きたいと本気で思う教員が居なくなります。

 

 

学校教育を考える①『校則』

今、良くも悪くも注目されている「校則」。

その中でも特に「制服(服装)」と「髪型」に注目が集まっています。

 

 

私が教員生活の中でよく耳にしてきた言葉。

一例を挙げれば、

「服装の乱れは心の乱れ」

「学校に来るのに個性やオシャレは必要ない」

「365日今すぐにでも面接を受けられる髪型にしておかなければならない」

「きちんと制服を着て〇〇高校生としての自覚を持ち、心をひとつに!」

など。

 

 

私は教員ですが、

もちろんこれには全く納得していません。

 

 

なぜなら、

 

 

『服装の乱れは心の乱れ』

→ そもそも順序が逆。服装が乱れたから心が乱れたのではなく、心が乱れた(心に問題が起きた)からそれが服装に現れただけ。

「服装の乱れ」がそんなに気になるのであれば、シャツを入れろだのボタンを留めろだのといった見た目だけの指導する前に、その子が制服をきちんと着ていないのはなぜだろうか?という事に目を向け、それを解決するためにどういった支援が必要なのか?という事を考えるのが先だと思う。

また、「制服や髪形などのルールを緩めると学校が荒れる」といった事もよく聞く話だが、これもただの迷信だと思っている。

なぜなら、この理論で行くと「髪型や服装は自由な学校は全て荒れている」という事になる。

長野県の公立高校の半分は私服らしいので、この理論から言えば長野県の半分の公立高校は荒れていなければおかしいが、そのようなことは全く聞いたことは無い。

 

 

『学校に来るのに個性やオシャレは必要ない』

→ 確かに勉強するその瞬間だけを見れば、オシャレは必要無いかもしれない。でも学校は勉強をするためだけに来るところではない。

勉強・人間関係・自分自身の在り方や生き方を考える事。それらをひっくるめて「学ぶ場所」。それが学校であるはず。

思春期を経て社会人へ成長していくこの時期。見た目や異性を気にし始める、他人を意識するというのは人という生物として当たり前の事。

自分自身を知り、自分自身の魅力や能力を、試行錯誤しながら開花させていく。

心と体は一体で分割できない存在である以上(アドラー心理学より)、その日の髪形や服装によって気分を整えて行く事、そしてその手段を知り実践することは、学校でのより良い学びに繋がっていくものだと思う。

 

 

『365日今すぐにでも面接を受けられる髪型にしておかなければならない』

→ 単純に「なんで??」としか思わない。面接で好印象になるように髪型を整えることなんて、前日に床屋に行って「明日面接なんで清潔感のある髪型にしてください」って言えば1時間でできる。

「いつもその髪型にしておかなければ面接に行けない」なんて、何の都市伝説だろうか?

ちなみにほとんどの学校は「整髪料や化粧は禁止」にしてるけど、社会人としてのマナーは逆だよね?

寝癖を直して整髪料で髪型を整える。女性はすっぴんの方が指摘されることが多いので化粧をする(職業にもよるけど)。社会人なら当たり前のようにやっている事。

これらを学校で禁止しておいて、いざ卒業したら「自分で考えてやれ」という理不尽。

何のための教育なのか?学校なのか?本当に意味が分からない。

 

 

『きちんと制服を着て〇〇高校生としての自覚を持ち、心をひとつに!』

→ 軍隊か?そもそも心は一つにはならないし、教育で大切にしなければならない多様性や個性はどこ行った??

大切なのは見てくれの統一感ではなく、「この学校に居場所がある」「この学校の生徒で良かった」と思える「所属感」なのではないだろうか?

それは日ごろからの学校生活の日常において積み重ね養われて行くものであり、生徒同士・教師同士・教師と生徒の信頼関係の構築でしか手にすることはできないと思うし、そこに服装や髪形は何の関係も無い。ましてや「同じ制服を着る」ことで獲得できるような安易なものでも無いと思う。

 

 

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まぁ、色々ともの思う事はあるのですが、

こういう事を考えるとき、いつも思い出す言葉があります。

 

 

APU(立命館アジア太平洋大学)の学長である出口治明さんの言葉。

『今の学校に一番足りないのはサイエンス(科学)とエビデンス(根拠)である。』

 

東京大学名誉教授である汐見稔幸さんの言葉。

『学校はもっと「そもそも論」を議論すべき』

 

 

これらの言葉が全てではないだろうか?

 

「そもそも学校は何のためにあるのか?」

「その目的を達成するのに最適な手段とは何か?」

「そのルールにしている論理的・科学的な根拠は何なのか?」

「そもそもこのルールはなぜあるのか?」

「本当にこのルールが適切なのか?」

 

学校が本当により良い学びの場であるために、一度ゼロベースで考え直してみる時期に来ているのではないかと感じます。

 

 

学校教育と対話

今学校教育に一番足りないもの。

それは『対話』だと感じています。

 

「先生」と「生徒」の対話。

「生徒」と「生徒」の対話。

「先生」と「先生」の対話。

 

その全てが足りていない。

 

 

生徒は、

・毎日朝から夕方までぎっちりと詰まった時間割。

・先生によって言動を厳格に管理された授業。

・放課後は部活動や塾。

・家では宿題。

・苦手で出来ない事があれば、放課後であろうと何だろうと出来るまで延々とさせられる。

・宿題を忘れるなどのミスをすると徹底的に怒られ追い込まれる。

など、心も体も余裕が無く、常にプレッシャーを与えられる。

そんな状況では「何でも先生に相談して」って言われたって無理だし、「みんな違ってみんな良い」なんてことを受け入れる余裕も無い。

また、心と体の余裕も無いのに、「夢や希望を見つけろ!」「夢や目標を持て!」と言われても、無理に決まってる。

 

 

先生は先生で、

・静かに席に座らせて私語をさせないのが指導力のある教師(右へならえをちゃんとさせることが出来るのが良い教師)という呪いの価値観。

・学校の「評価」を上げるために、良い学校へ進学させる、良い会社に就職させることに躍起になる。

・そのために生徒に勉強や宿題を徹底的にさせて「評価」を上げることが最優先。

・意味の分からない「やってる感」満載の仕事がお上からやってきて、結果ビルド&ビルドで積み重なっていく仕事。

・生徒に向き合うヒマもなく、起こるべくして起こる生徒の問題行動。時間が無いので対処も場当たり的なやっつけ対応。

・責任を取りたくない管理職

 

などの要因で余裕がない。

「対話」なんて言ってるヒマも無い。

 

全ての学校がそうとは言いませんが、かなりの部分が当てはまるのではないでしょうか?

 

 

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人間関係の基本となる「信頼関係」。

そのほとんどは「対話」を通して作り上げていくものです。

その「対話」が、子ども達を育てて行く「学校」で十分に行われていないという事は、「信頼関係」を築く術を知らないまま社会へ送り出すという事。

 

「信頼関係」を気づく術を知らない人が増えてしまえば、本当に殺伐とした社会になりかねません。

また、仕事の効率も上がらず、いつまで経ってもジリ貧で閉塞感から抜け出せません。

SDGsで言われているような「誰一人取り残さない社会」も実現できません。

学校でのいじめ問題や、主体性が無い人が増えていると言われている原因の、かなりの部分がここに関係しているのではないでしょうか?

 

 

 

現在の学校や教育が、子ども達や先生達にとって「息苦しい(生き苦しい)」ものになってしまっています。

その大きな理由としては、「学びの主体者である子ども達」と「それを支えて行く先生」といった現場の声が、学校運営にほとんど反映されていないという事なんじゃないかと感じます。

 

 

生徒の意見を聞く場のはずの生徒総会は、生徒から出された意見は事前に先生によって検閲され、学校にとって都合の悪い事は議論されず、生徒を言いくるめるだけ様な根拠が無い形での回答しかなく、総会が形骸化している。

 

 

先生の意見を学校運営に反映させるための職員会議も、事前に管理職等で行う「運営委員会」で決まったことが絶対であり、会議で発せられた先生の意見はほとんど通らない。(聞いたフリはするが、最終的には「すでに運営委員会で決まったことです」の言葉で切られてしまう。)

「会議」とは名ばかりで、ただの連絡調整の場でしかなく、「先生方の意見も一応聞きましたよ~~」という管理職の実績作りの場に成り下がっており、これも形骸化している。

 

 

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ちなみに、本来の「職員会議」の立ち位置とはどのようなものなのか?

広島県教育委員会のホームページにはこう書かれています。

 

「職員会議」は、学校運営が円滑に行われるように、校長が、所属職員の意見を聞いたり、校長の運営方針を周知させたり、職員相互の事務連絡を図るものであり、意思決定は、校長自らの権限と責任において行う。つまり、校長が職務遂行するに当たって、それを補助する機関として位置づけられるものです。

~途中略~

 かつて、職員会議を「最高議決機関」として位置づけることが一部において主張されていました。

 しかし、職員会議を最高議決機関とする説は矛盾点が指摘される中、判例においても否定されています。

 つまり、学校教育法第28条第3項では「校長は、校務をつかさどり、所属職員を監督する」と規定し、校長は法令や教育委員会の指揮監督に従い、学校の責任者として教育活動が円滑に行われるよう、所属職員を指導監督し、校務運営を行っていくことが定められており、職員会議を最高議決機関とすることはあり得ないのです。

 しかしながら、学校教育法などの法令では、特段の規定がおかれていなかったため、間違った解釈での主張が展開され、一部の学校においては、主任の任命等にも影響を及ぼしていました。

 このような状況から、広島県では平成11年3月に「広島県立高等学校等管理規則」及び「市町村立小中学校管理規則規則(案)」を改正し、「校長は、校務運営上必要と認めるときは、校長の職務の円滑な執行を補助させるため、職員会議を置くことができる。」、「職員会議は、校長が必要と認める事項について、教職員間の意思疎通、共通理解の促進、教職員の意見交換などを行う。」、「職員会議は、校長が招集し、主宰する。」、「(前項に掲げるもののほか)職員会議の組織及び運営について必要な事項は、校長が定める」と、職員会議が「校長の補助機関」である旨を規定しました。

 

 

となっています。(長くてスミマセン 汗)

つまり、先に書いたような、

「運営委員会でもう決まったことだから、どんなに意見を言われても変えられません。この案で行きます!」

なんて事は、本来あってはならない事なのです。

 

 

ーーーーーーーーーー

最初に書いた通り、学校には「対話」が必要です。

「生徒」も「先生」も人間です。

社会で生きている大人達もまた人間です。

 

人間がより良い社会を形成するためには、「自己受容」「他者信頼」「他社貢献」がうまく繋がる必要があり、それを作り上げていくためにも「対話」が絶対に必要です。

 

子ども達の学びの場である「学校」という場所が、「どのような学びの場を目指していくべきなのか?」「どのような学びの場であって欲しいのか?」という事について、そこに関わる生徒・先生・保護者・地域の大人達でしっかりと「対話」を繰り返し、「学校」が皆にとってより良い学びの場となる事を目指し、失敗を恐れず実践しながら作り上げていくという事が何より必要な事なのではないかと感じます。

 

 

教員採用試験・備忘録④『生徒指導』

今回のテーマは『生徒指導』

 

皆さんは「生徒指導」に関してどんな印象を持っていますか?

主な印象としては、「校則を守らせる」「生徒をしっかりと管理する」「間違った行動に関しては厳しく罰する」「先生や親の言う事を聞かせる」といったものではないでしょうか?

 

文部科学省により2010年(平成22年)3月に発刊された『生徒指導提要』によれば、生徒指導は「一人一人の児童生徒の人格を尊重し、個性の伸長を図りながら、社会的資質や行動力を高めることを目指して行われる教育活動」であり、「すべての児童生徒のそれぞれの人格のよりよい発達を目指すとともに、学校生活がすべての児童生徒にとって有意義で興味深く、充実したものになることを目指して行われるもの」であることが明記されています。

 

そして同じく生徒指導の意義について「教育課程の内外において一人一人の児童生徒の健全な成長を促し、児童生徒自ら現在及び将来における自己実現を図っていくための自己指導能力の育成を目指すこと」にあるとしています。

 

つまり、本来あるべき生徒指導の姿というのは「生徒を管理する」ことでもなく「校則を頑なに守らせる」ことでもありませんし、ましてや「校則を守らない者に対して罰を与える」ことでもありません。

 

生徒指導の目的は、生徒指導提要にも書かれているように、

◆一人一人の個性の伸長を図ること

◆すべての児童生徒にとって学校が有意義で充実したものになること

◆一人一人の健全な成長を促すこと

自己実現のための自己指導能力を育成すること(自分自身をきちんと知るっていう事とも言えるのかな?)

というものです。

 

 

もっと端的に言えば、

◆一人の人間として自立する

◆社会と調和して生きることができる

ように成長を促すとも言えるのかもしれません。

 

 

どちらにせよ、学校現場の生徒指導の主流である「大人の価値観を一方的に無理やり押し付ける」やり方だったり、「大人の都合の良いように生徒を管理する」ような生徒指導のやり方は、明らかに国の方針に反しているものなのです。

 

これを聞いて「意外!」って思う人は多いのではないでしょうか?

『国や文科省教育委員会からやれって言われているから、学校では仕方なくこんな生徒指導をしているのだ』と思いきや、実は学校独自の判断(校則)で国や文科省の方針とは真逆な生徒指導が行われているのです。

 

ということは、逆に言えば学校(校長)を始めとした教員の意識・保護者の意識でいくらでも変えられるという事でもあります。

 

 

 

一昔前であれば、時代背景的にこのような校則にせざるを得なかった事情もあるでしょう。

現在も、ブラックと言われる学校の労働環境の中で、外部からの理不尽なクレームを防ぎ、社会からの要求を満たしながら教育活動を継続するためにやむを得ない部分もあるでしょう。

 

だからと言って、このままで良いという事は決してありません。

また、学校や教師だけの責任にするという事も絶対にあってはならない事です。

 

学校や教員・教育に関わる人間だけでなく、社会に生きる大人全員の課題として考えなければならない問題です。

 

生徒指導のみならず、いまだに根強く残る学歴信仰・大学信仰、終身雇用信仰。

それに伴う受験競争の低年齢化。不登校生の増加。若年層の自殺者の増加。

時折、韓国の受験戦争の異常さがテレビでも報道されますが、日本とは違うと言い切れるでしょうか?

私たち大人が子ども達に残したい社会のカタチとは、このようなものなのでしょうか?

 

 

これから新たなステージを迎える社会(Society 5.0 や SDGsと呼ばれる社会)において、個人がより良く幸せに生きるために必要なスキル、ゼロから新しい価値を生み出すチカラ。

教育(学校)が求められているものは確実に変わって来ています。

 

ということは、学校のカタチもまた時代に合わせて変わって行かなければなりません。

またそれと同時に、今の社会とこれからの社会を生きる私たち大人の意識もまた変わって行かなければなりません。

 

今を生きる大人たちが立場や職業の垣根を越えて、教育や学校のあり方を「他人事」ではなく「当事者」として関われるような教育環境が実現してくれることを願うと共に、個人でできることに少しづつ取り組んで行く所存です。^^

 

 

教員採用試験・備忘録③『子どもの権利』

今回のテーマは『子どもの権利』

 

日本国内のみならず、世界的に見ても宣言や条約などで「子どもの権利」を保護する法律が沢山あります。

これは教育関係者のみならず、すべての大人が知っておかなければならないぐらい重要なものだと感じます。

 

しかし、どれほどの大人がこの「子どもの権利」についてきちんと理解しているのかは正直疑問に思うところが大きいです。

その理由の一つとしては、こういった「子どもの権利」について、学校できちんと教えていないというのもあると思います。

 

子どもたち自身が「自分たちの権利」を理解し、その権利をしっかりと責任を持って使える事が大事だし、その権利を私たち大人がきちんと認めることが大事です。

 

 

 

では教育に関連する部分で気になるところを抜粋。

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◆世界人権宣言

<26条>

1  すべて人は、教育を受ける権利を有する。教育は、少なくとも初等の及び基礎的の段階においては、無償でなければならない。初等教育は、義務的でなければならない。技術教育及び職業教育は、一般に利用できるものでなければならず、また、高等教育は、能力に応じ、すべての者にひとしく開放されていなければならない。
2  教育は、人格の完全な発展並びに人権及び基本的自由の尊重の強化を目的としなければならない。教育は、すべての国又は人種的若しくは宗教的集団の相互間の理解、寛容及び友好関係を増進し、かつ、平和の維持のため、国際連合の活動を促進するものでなければならない。
3  親は、子に与える教育の種類を選択する優先的権利を有する

 

◆児童の権利宣言

<7条>

児童は、教育を受ける権利を有する。その教育は、少なくとも初等の段階においては、無償、かつ、義務的でなければならない。児童は、その一般的な教養を高め、機会均等の原則に基づいて、その能力、判断力並びに道徳的及び社会的責任感を発達させ、社会の有用な一員となりうるような教育を与えられなければならない。

児童の教育及び指導について責任を有する者は、児童の最善の利益をその指導の原則としなければならない。その責任は、まず第一に児童の両親にある。

児童は、遊戯及びレクリエーシヨンのための充分な機会を与えられる権利を有する。その遊戯及びレクリエーシヨンは、教育と同じような目的に向けられなければならない。社会及び公の機関は、この権利の享有を促進するために努力しなければならない。

 

国際人権規約

<第13条>

1 この規約の締約国は、教育についてのすべての者の権利を認める。締約国は、教育が人格の完成及び人格の尊厳についての意識の十分な発達を指向し並びに人権及び基本的自由の尊重を強化すべきことに同意する。更に、締約国は、教育が、すべての者に対し、自由な社会に効果的に参加すること、諸国民の間及び人種的、種族的又は宗教的集団の間の理解、寛容及び友好を促進すること並びに平和の維持のための国際連合の活動を助長することを可能にすべきことに同意する。

2 この規約の締約国は、1の権利の完全な実現を達成するため、次のことを認める。

(a) 初等教育は、義務的なものとし、すべての者に対して無償のものとすること。
(b) 種々の形態の中等教育(技術的及び職業的中等教育を含む。)は、すべての適当な方法により、特に、無償教育の漸進的な導入により、一般的に利用可能であり、かつ、すべての者に対して機会が与えられるものとすること。
(c) 高等教育は、すべての適当な方法により、特に、無償教育の漸進的な導入により、能力に応じ、すべての者に対して均等に機会が与えられるものとすること。
(d) 基礎教育は、初等教育を受けなかった者又はその全課程を修了しなかった者のため、できる限り奨励され又は強化されること。
(e) すべての段階にわたる学校制度の発展を積極的に追求し、適当な奨学金制度を設立し及び教育職員の物質的条件を不断に改善すること。
3 この規約の締約国は、父母及び場合により法定保護者が、公の機関によって設置される学校以外の学校であって国によって定められ又は承認される最低限度の教育上の基準に適合するものを児童のために選択する自由並びに自己の信念に従って児童の宗教的及び道徳的教育を確保する自由を有することを尊重することを約束する。
4 この条のいかなる規定も、個人及び団体が教育機関を設置し及び管理する自由を妨げるものと解してはならない。ただし、常に、1に定める原則が遵守されること及び当該教育機関において行なわれる教育が国によって定められる最低限度の基準に適合することを条件とする。

 

児童の権利に関する条約

子どもの権利条約

<12条>

1 締約国は、自己の意見を形成する能力のある児童がその児童に影響を及ぼすすべての事項について自由に自己の意見を表明する権利を確保する。この場合において、児童の意見は、その児童の年齢及び成熟度に従って相応に考慮されるものとする。

2 このため、児童は、特に、自己に影響を及ぼすあらゆる司法上及び行政上の手続において、国内法の手続規則に合致する方法により直接に又は代理人若しくは適当な団体を通じて聴取される機会を与えられる。

 

<13条①>

1 児童は、表現の自由についての権利を有する。この権利には、口頭、手書き若しくは印刷、芸術の形態又は自ら選択する他の方法により、国境とのかかわりなく、あらゆる種類の情報及び考えを求め、受け及び伝える自由を含む。

 

 

<28条>

1 締約国は、教育についての児童の権利を認めるものとし、この権利を漸進的にかつ機会の平等を基礎として達成するため、特に、

(a) 初等教育を義務的なものとし、すべての者に対して無償のものとする。
(b) 種々の形態の中等教育(一般教育及び職業教育を含む。)の発展を奨励し、すべての児童に対し、これらの中等教育が利用可能であり、かつ、これらを利用する機会が与えられるものとし、例えば、無償教育の導入、必要な場合における財政的援助の提供のような適当な措置をとる。
(c) すべての適当な方法により、能力に応じ、すべての者に対して高等教育を利用する機会が与えられるものとする。
(d) すべての児童に対し、教育及び職業に関する情報及び指導が利用可能であり、かつ、これらを利用する機会が与えられるものとする。
(e) 定期的な登校及び中途退学率の減少を奨励するための措置をとる。
2 締約国は、学校の規律が児童の人間の尊厳に適合する方法で及びこの条約に従って運用されることを確保するためのすべての適当な措置をとる。
3 締約国は、特に全世界における無知及び非識字の廃絶に寄与し並びに科学上及び技術上の知識並びに最新の教育方法の利用を容易にするため、教育に関する事項についての国際協力を促進し、及び奨励する。これに関しては、特に、開発途上国の必要を考慮する。

 

<29条>

1 締約国は、児童の教育が次のことを指向すべきことに同意する。

(a) 児童の人格、才能並びに精神的及び身体的な能力をその可能な最大限度まで発達させること。
(b) 人権及び基本的自由並びに国際連合憲章にうたう原則の尊重を育成すること。
(c) 児童の父母、児童の文化的同一性、言語及び価値観、児童の居住国及び出身国の国民的価値観並びに自己の文明と異なる文明に対する尊重を育成すること。
(d) すべての人民の間の、種族的、国民的及び宗教的集団の間の並びに原住民である者の理解、平和、寛容、両性の平等及び友好の精神に従い、自由な社会における責任ある生活のために児童に準備させること。
(e) 自然環境の尊重を育成すること。

 

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このようにいろいろな宣言や条約があるけれど、

共通しているのは

 

『子どもを一人の同じ人間として尊重する』

 

という理念であり、

そのうえで、

 

『子どもの意見や意志をきちんと聞こう』

 

という事でしょう。

 

 

学校現場で飛び交う

「生徒はロクなことをしない」

「生徒に全部任せていたら動物園みたいになる」

「どうせ無理」

などの言葉。

 

そこには、子どもを尊重する姿勢も、子どもとともに社会を作って行こうとする姿勢も感じられません。

子どもを信頼も尊重もしていないから「管理」して「支配」しようとする。

そんな学校のカタチがまだまだ主流であるという事は、本当に残念な事です。

 

 

これらの条約などに書かれている通り、

子どもを1人の人格として尊重し、

子どもときちんと対等に「対話」する。

 

「対話」を通してお互いの「合意形成」を積み重ねて行くことで、

大人と子ども双方にとって、

「より良い学校のカタチ」

というものが出来上がってくのではないでしょうか?

そんな教師を目指したいと思う今日この頃です。

 

 

 

 

 

教員採用試験・備忘録②『教育基本法』

今回のテーマは『教育基本法

 

教育に関わる法律で一番大事なトコロ。

学校教育をはじめ、すべての教育はこの法律にのっとって行われていなければならない。・・・はず。

果たしてどうなのか・・・

 

 

 

気になるところを抜粋。

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<前文>

・・・(略)個人の尊厳を重んじ、真理と正義を希求し、公共の精神を尊び、豊かな人間性と創造性を備えた人間の育成を期するとともに、伝統を継承し、新しい文化の創造を目指す教育を推進する。・・・(略)

 

<第1条>(教育の目的)

教育は、人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。

 

<第2条>(教育の目標)

教育は、その目的を実現するため、学問の自由を尊重しつつ、次に掲げる目標を達成するよう行われるものとする。
一 幅広い知識と教養を身に付け、真理を求める態度を養い、豊かな情操と道徳心を培うとともに、健やかな身体を養うこと。
二 個人の価値を尊重して、その能力を伸ばし創造性を培い自主及び自律の精神を養うとともに、職業及び生活との関連を重視し、勤労を重んずる態度を養うこと。
三 正義と責任男女の平等自他の敬愛と協力を重んずるとともに、公共の精神に基づき、主体的に社会の形成に参画し、その発展に寄与する態度を養うこと。
四 生命を尊び自然を大切にし環境の保全に寄与する態度を養うこと。
五 伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと。

 

<第5条>(義務教育)

国民は、その保護する子に、別に法律で定めるところにより、普通教育を受けさせる義務を負う。
2 義務教育として行われる普通教育は、各個人の有する能力を伸ばしつつ社会において自立的に生きる基礎を培い、また、国家及び社会の形成者として必要とされる基本的な資質を養うことを目的として行われるものとする。
3 国及び地方公共団体は、義務教育の機会を保障し、その水準を確保するため、適切な役割分担及び相互の協力の下、その実施に責任を負う。
4 国又は地方公共団体の設置する学校における義務教育については、授業料を徴収しない。

 

<第6条>(学校教育)

法律に定める学校は、公の性質を有するものであって、国、地方公共団体及び法律に定める法人のみが、これを設置することができる。
2 前項の学校においては、教育の目標が達成されるよう、教育を受ける者の心身の発達に応じて、体系的な教育が組織的に行われなければならない。この場合において、教育を受ける者が、学校生活を営む上で必要な規律を重んずるとともに、自ら進んで学習に取り組む意欲を高めることを重視して行われなければならない。

 

<第9条>(教員)

法律に定める学校の教員は、自己の崇高な使命を深く自覚し、絶えず研究と修養に励み、その職責の遂行に努めなければならない。
2 前項の教員については、その使命と職責の重要性にかんがみ、その身分は尊重され、待遇の適正が期せられるとともに、養成と研修の充実が図られなければならない。

 

<第16条>(教育行政)

教育は、不当な支配に服することなく、この法律及び他の法律の定めるところにより行われるべきものであり、教育行政は、国と地方公共団体との適切な役割分担及び相互の協力の下、公正かつ適正に行われなければならない。
2 国は、全国的な教育の機会均等と教育水準の維持向上を図るため、教育に関する施策を総合的に策定し、実施しなければならない。
3 地方公共団体は、その地域における教育の振興を図るため、その実情に応じた教育に関する施策を策定し、実施しなければならない。
4 国及び地方公共団体は、教育が円滑かつ継続的に実施されるよう、必要な財政上の措置を講じなければならない。

 

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・・・ふむ。

やはり法律としては良くできているなぁ~と感じます。

この法律を作った先人達はやっぱりスゴいな~とも思う。

 

 

 

しかし、

 

 

なぜにこの法律が現場に反映されていないのか?

(0とは言わないけれど、実感的には3割ぐらいかなぁ・・・)

 

 

未だに「学力・評価重視」の学校が大半なのはなぜ?

「受験競争」が相変わらずなのはなぜ?

(日本だって韓国の受験の事をとやかく言えないよね。)

「名門校の肩書き」を欲するのはなぜ?

「教員」が修練や研鑽」に努めないのはなぜ?

(研鑽に務める時間すらも与えてくれないんだけどね。)

「地域の実情」が全く反映されず、ただ統廃合を繰り返し、その地域に必要ない(就職の受け入れ先も無い)と思われる学科も多くあるのはなぜ?

 

 

 

・・・

もしかして私は思い違いをしていたのかもしれない。

 

私は今まで、

「教育」を変えていくには、法律や学校のシステムとかを「今までとは違ったカタチ」に変えなければいけない!」

と思っていた。

 

でも実はそうじゃなく、

今一度、日本国憲法教育基本法に書かれている理念や目標をしっかりと理解し「基本」に立ち返り、「教育の目的(最上位目標)」としっかりと向き合い、「本来の教育のカタチを取り戻す」

事が必要なんじゃないかと。

 

 

だって、

この法律に書かれているような教育が学校できちんと実践されているならば、

不登校」や「若年者の自殺」なんて起こらないはず。

ニートや引きこもり等といったことも起こらないはず。

 

 

いままで「法律」というものを意識して生活したり仕事したりしたことは、正直あまり無かった。

 

でもこうやって勉強してみると、

「法律」や「ルール」というものは、

「誰一人取り残すことなくより良く幸せに生きる為に必要なもの」

であるという事が理解できる。

 

「法律」や「ルール」が、

「誰かを管理したり支配するためのもの」

であっては絶対にいけないという事も。

 

 

 

「学校にある様々なルール」

それは何のためのルールですか?

それは誰のためのルールですか?

 

しっかりと考える必要がありそうです。